国立劇場 文楽5月公演第一部(その2)

平成27年5月文楽公演<第一部>11時開演
 五條橋(ごじょうばし) 
 新版歌祭文(しんばんうたざいもん)
    野崎村の段
 吉田玉女改め
 二代目吉田玉男襲名披露 口上
 襲名披露狂言
 一谷嫰軍記(いちのたにふたばぐんき)
    熊谷桜の段、熊谷陣屋の段
http://www.ntj.jac.go.jp/schedule/kokuritsu_s/2015/5141.html

吉田玉女改め 二代目吉田玉男襲名口上

文楽なので、襲名された新玉男さんの口上はないのですが、薄紫色の裃姿の総勢19名が並んだ豪華な襲名口上でした。千歳さんが進行役のような立場で、太夫を代表して嶋師匠、三味線を代表して寛治師匠、同期の和生さん、勘十郎さんがお話をされました。

和生さんが、初代玉男さんに触れて、熊谷陣屋の熊谷が藤の局を組伏して鐺を左手で掴むやり方は初代の工夫という話をされていた。過去の遺産に安住せず、常に良いものを追い求めた方なのだなと感じさせるエピソードでした。


襲名披露狂言 一谷嫰軍記(いちのたにふたばぐんき)熊谷桜の段、熊谷陣屋の段熊谷陣屋

新・玉男さんの熊谷と和生さんの相模、勘十郎さんの藤の局、弥陀六の玉也さんと、今、観ることが出来る最高の人形遣いの熊谷陣屋を観ることができました。初代玉男さん活躍する時代に間に合わなくて残念だったけれども、これから新玉男さんと勘十郎さんと和生さんの活躍する時代を目撃できるのなら、またそれはそれで良い巡り合わせで文楽に出会えたと、嬉しく思いました。

今回は、熊谷も相模も言わずもがなで素晴らしかったけど、改めて面白く思ったのは、勘十郎さんの藤の局だった。

勘十郎さんの藤の局は、「物狂い」という言葉を思い出させるような女性だった。お能には、いなくなってしまった自分の子供を探して物狂いとなった母が出てくる。藤の方も、敦盛の仇を討とうという狂わんばかりの思いが溢れており、その存在感に圧倒された。藤の局は、通常は、上品に、大人しく演じられることが多い。けれども今回は、相模と藤の方の存在感のぶつかり合いというものを舞台上に観た。熊谷という主人公としての大きな柱を挟んで、藤の方と相模が配されるという構図が、まるでこの物語の曼陀羅を観るようだった。私は、熊谷陣屋で、上手に藤の方を、下手も相模をおいて、熊谷が小次郎の死を敦盛になぞらえて語る意味が分かった気がした。敦盛の身代わりとして小次郎の首を討った熊谷は、敦盛になぞらえて小次郎の死を語る必要があったし、その聞き手として藤の方と相模の双方を必要としたのだ。

先日、中沢新一氏の「日本文学の大地」の中の「太平記」の章に、興味深い記述を見つけた。中沢氏によれば、東国の武士にとっては戦争は宗教的な儀式であり、人格の尊厳を掛けた倫理性をもった聖なる行為であり、「イデオロギー」である。一方、西国の武士にとって戦争は、人格の尊厳やら倫理やら儀礼とは無縁な「技術」だったというのだ。

この部分を読んだ時、熊谷陣屋のことを思い出した。東国武士にとっては、戦とは人間の尊厳をかけた倫理性をもった聖なる行為で、だから、戦の中で、義経は熊谷に皇位継承権を持つ敦盛を討たざるをえないのならその身替りが必要ということを、桜の制札をもって謎掛けで知らせ、熊谷は小次郎を敦盛の身替りとすることを決心し、小次郎も了承する。一方、西国武士である平家の藤の方にとっては、戦はあくまで戦であって、大事な敦盛が戦で命を落とすに値しない出来事なのだ。

さらに、東国武士の戦における倫理性ということを考えれば、敦盛の身替わりが誰だったのか明らかになった後の、弥陀六と義経のやりとりの持つ意味もよく分かる。直実親子が敦盛の身替りを提供することでこの物語を終わらせては、お涙頂戴の底の浅い物語になってしまう。弥陀六こと平宗清が後悔の念を以て語るように、平家は一度は源頼朝の息の根を止める機会があったのに、宗清は池禅尼と言い合わせて幼い頼朝を救った。そのことを思えば、平家が海をさまよって修羅道の苦しみを味わい、小次郎が敦盛の身替わりとならざるを得なかった悲劇は、東国武士の倫理性を無視した、源頼朝の、恩を徒で返す裏切りの結果でもあるのだ。『平家物語』では平家の没落と平家の人々の鎮魂がテーマとなっていて源頼朝の罪ということについてはあまり深く追求されない。しかし、かつて僧侶でもあり、また、その浄瑠璃の中で潔癖なまでの精神性を見せる並木宗輔にとっては、この頼朝による忘恩の行為は指摘しなければならない問題だったのではないだろうか。

そう考えると、宗輔等はこの浄瑠璃の中で、平家と源氏のそれぞれの悲劇を描き、そこに無常をみた直実が仏門に入る姿を描くことで、源平の戦いの無常という、大変重いテーマを扱った物語を構築としたのだということが分かる。今の私には十分に理解しきれない、また何年か先に観てみたい作品なのでした。