国立劇場小劇場 文楽九月公演第一部

面売り

おしゃべり案山子(玉佳さん)と面売り(勘彌さん)の二人の踊り。活躍するのは面売りで、娘の面売りが様々な面を付けて面にあわせた踊りを踊る。

曲が変化に飛んでいて面白い。文楽の音楽といえば短調で、明るい雰囲気のものでも郷愁や切なさをスパイスとして加えた、こくのある曲調がほとんどだ。一方、この曲はあくまで明るく、幸せな空気に満ちているのに、その幸福感は触れれば消えてしまうような、はかなさを秘めている。戦時中の作品らしいので、そんな空気が曲調に影響を与えているのかも。

「おしゃべり案山子」って、何者なんでしょう。案山子と言っても人なんですけど(人形だけど)。彼は自分の身長より長い長柄の傘を持っているが、その先には雨よけにはならない菅笠のようなものが付いている。その笠には「風流説経」と書いてある。本人も説経を語ると言っているし、説経師は傘を持っていてその下で語り芸をしたそうだから、「おしゃべり案山子」の「おしゃべり」は、説経芸のことなのでしょう。また、辞書には「案山子」の意味として、田んぼにある案山子以外に、たぶんそこから派生して「見かけ倒し」という意味が載っているので、自分の説経芸は口から出任せの語り芸と謙遜した名前なのかも。

一方の面売り(勘彌さん)は踊りの上手い女の子。実はタイトル通り、この面売りこそが、この一曲の主人公。天狗、福助、お多福など様々な面を付けて、様々に楽しい踊りを見せてくれるのでした。


鎌倉三代紀

大阪冬の陣を扱った『近江源氏先陣館』の後編として、お上を憚って大阪夏の陣鎌倉時代に移したものだそう。

物語の緻密な構成とそれをドライブするいきいきとした登場人物達に、面白さを感じました。

『絵本太功記』の尼崎の段と『ひらがな盛衰記』の逆櫓の段を合わせたような良いとこ取りの展開なのだけど、近松半二らしさというのを感じさせる部分もあり、それも興味深かった。

半二らしいなと思ったのは、ひとつは自分の目的の達成だけを直情的に追い求める三浦之助の性格。彼の妻の時姫は敵方の北条時政の娘であるにもかかわらず、北条方を離れ、献身的に三浦之助の母の介抱をし、三浦之助に対してもむやみに引き留めるのではなく、死期の近い三浦之助の母のことも慮り、彼が再度戦場に赴こうとするのを引き留める。しかし、三浦之助は時姫を疑い、彼女の言い分には耳もかさない。また後半、彼女が完全に北条方への思いを断ち切って来たと判明しても、なお、時姫の父である時政を殺せと残酷なことを要求する。

半二の作品の中には、目的の達成のためには手段を選ばず、そのためには無情なことも平気で行う若者が登場する。第二部の『妹背山婦女庭訓』の求馬くんしかり、『本朝廿四孝』の勝頼さましかり。時姫が思慮深い女性であるのとは対照的だ。『絵本太功記』の十次郎くんが初菊のことを思いやる姿とは全然異なる。三浦之助は母に対しては下にも置かない孝行ぶりなのに、時姫に対してはあくまで心を開かない。

三浦之助は重要な登場人物なので、本来、観客の共感を得るためには、もっと情のある人物にした方がよいのは、半二も分かっていたと思う。けれども半二がそうしていないのは、何故だろう。求馬や勝頼様のことも考え合わせると、彼はある種の確信をもってこういう人物像を作り上げていることは確かだと思う。この謎をもっと掘り下げていけば、半二の人となりや彼の哲学の一端に触れることのできるような予感がするけれども、今はじっくり考える時間をとることが難しいのが残念。

米洗ひの段は、呂勢さん、宗助さんのチャリが楽しく、時姫(清十郎さん)、三浦之助母(勘壽さん)、おらち(紋壽さん)がそれぞれ魅力的だった。三浦之助の母って本当は何歳くらいなんだろう。見た目はおばあさんだけど、前髪の三浦之助の年齢を考えたら、本当はそんなおばあさんというような年ではないのかも。病気で老け込んでしまったということなのかな。彼女は、おらちのような下々の者とも、お時のようなお姫様とも、分け隔てなく接する度量を持つ。

その中でも今回一番面白かったのは、おらちの紋壽さん。おらちはお節介焼きな人らしく、文字通り片肌縫いで(!)、時姫に胡麻の擂り方やお米の研ぎ方を教える。その場面はチャリとして面白いけど、紋壽さんのおらちはそれだけでなく、昔の庶民の姿を活写しているように感じる。紋壽さんの頭には、おらちのモデルとなるような女性達の姿が焼き付いているのではないだろうか。おらちをみて、私がまだ小さな子供だった頃、私をかわいがってくれた、近所の下町育ちの「ばあば」を思い出した。ばあばとおらちは、だいぶ違うけど、ばあばもおらち同様、世話焼きで口うるさいけれども気の良い、大地のような女性だったことを朧気ながら覚えている。たぶん、昔は、おらちのような人は近所に一人ぐらいはいたのではないだろうか。紋壽さんのおらちには、チャリの面白さだけでない、時代の進歩と共に消えていった、懐かしい庶民の姿をみる気がした。

三浦之助母別れの段(津駒さん、寛治師匠)は、三浦之助母の毅然とした態度と、三浦之助(幸助さん)への想いが届かない時姫の苦悩を描く段で、寛治師匠の場面の情景を描き出す三味線と、津駒さんの熱演がいつもに増して印象的でした。

高綱物語の段は、英大夫と清介さん。この段では藤三郎が正体を現し、高綱(玉男さん)だと分かる。三浦之助の役割の一つは、高綱が大きい人物であることをより強調することための演出にもある気がする。三浦之助に欠点があることで、比較論で、高綱が人格的にも優れた人物に見えるのだ。玉男さんの高綱は厳然かつ豪快で、清介さんの三味線も、荒々しいと言いたくなるほど鋭く冴えている。本来、この段は、語りも豪快で硬質な大音声の人がニンの場面な気がするけれども、今回はどちらかと言えばハスキーで柔和な語り口の世話物の方が似合う印象の英さん。あるレベルまで来ると得意不得意にかかわらず、語らなければならないのだから、大変です。


伊勢音頭恋寝刃

文楽の伊勢音頭は歌舞伎に比べてそんなにおもしろい印象はなかったけど、今回はとても面白かった。歌舞伎より面白かったことを確認しに10月歌舞伎の伊勢音頭を観て確認しようかと思ってしまったくらい。

面白さの理由は何と言っても咲師匠の語り。こういうちょっと遊びがあって味わいが全ての、大人の余裕が栄える段は本当にお手のもの。それから、勘十郎さんの万野。世慣れた八方美人でだけどいけずで嫌みったらしい女性という感じが、よく出てる。歌舞伎、文楽通じて万野をやらせて勘十郎さんを越える人はいないと断言したい。ホント、あのお三輪ちゃんを遣ってる人と同一人物なんでしょうか。

そういえば、私は、今までお鹿さんって万野にだまされて自分は貢さんに貢いでいると思いこんでいる人だと思ってたけど(歌舞伎はそうな気がする)、今回の咲師匠の語りを聴くと、お鹿さんは実は万野とグルって気がした。特にお鹿さんが、貢さんからのお金の無心が「五度や十度の事かいな」と主張した後の、うさんくさい嘘泣きとか。その後、十人斬の段で岩次とかと一緒にいるところとかも怪しいな。本当はどうなのでしょう?

そして、蓑助師匠の美しいお紺さん。もっと色気のある感じで演じられるのではと想像したけれども、意外にも、文雀師匠のお紺さんと相通じる気品がある。以前、雀右衛門丈のお紺さんを観た時もそんな感じでした。お紺さんという人の魅力としゅっとした貢さん(和生さん)という組み合わせも伊勢音頭の魅力の一つだと思う。

咲師匠は初日からしばらく休演だったそうだけど、私が拝見したときはお元気に語られていました。良かった。