世田谷パブリックシアター 三茶三味

杉本文楽を企画した杉本博司さんと清治師匠がタグを組んで、三茶で(太棹)三味線を楽しもうという企画。

第一部は、野川美穂子先生司会で、杉本博司さん、美術ライター・編集者の橋本麻里さんのトーク、第二部は三本の三味線による「三味線組曲」、第三部は義太夫節『卅三間堂棟由来』「平太郎住家から木遣音頭の段」(通称「柳」という構成です。

一番印象的だったのは、「柳」になるかと思いきや、清治師匠構成、清志郎さん、清馗さん、寛太郎さんによる「三味線組曲」でした。

組曲の構成は「三番叟」、「狐火」、「オクリ」、「雪」、「茶筅酒」、「沼津」、「木登り」、「柳」、「野崎村」の三味線の聴かせどころをコラージュしたものです。メドレー形式ではなく、現代音楽的に仕上げてあり、それが太棹三味線の重厚かつ硬質でパワフルな魅力をさらに引き立てます。演奏も、一糸乱れぬ鋭い切っ先で力強く空間を切り割いていくような、素晴らしいものでした。

「三番叟」は常の三番叟の旋律とその変奏。合奏の場合はユニゾンが圧倒的に多い文楽には珍しく、三人がそれぞれ別のリズムとメロディを奏でる三重奏で、バロック音楽的にも聞こえます。その中でも清志郎さんと清馗さんが主旋律のパートを交互に交代して弾いく部分があるのですが、まるで一人の人が弾いているかのようにシームレスな演奏です。何気に高度なテクニックを見せていました。また、「オクリ」は通常、一人の三味線弾きの方が弾きますが、ここでも清志郎さんと清馗さんが完璧に揃ったユニゾンで「オクリ」を聴かせてくれました。

途中、いったん楽器を置いて糸送りを行ったのですが、その所作も三人揃ってきびきびと行っていて、目にもおもしろいのでした。ドラム・コーの無言の演技を観ているようです。

後半には、「沼津」で寛太郎さんの胡弓も入ります。さらに、「木登り」のメリヤス。先日、地方公演の『絵本太功記』「尼崎の段」の段切り近くで、寛太郎さん率いるメリヤス軍団のキレッキレの「木登り」を聴いたばかりでしたが、やはり、清志郎さん、清馗さん、寛太郎さんというメンバーになると、キレッキレ度も段違い。最後は私も大好きな「野崎村」(中でも清治一門の「野崎村」が一番好き!)で締めとなりました。こういう三味線の演奏は是非、これからも機会があればやっていただきたいですね。


肝心の呂勢さん、清治師匠の「柳」の方は、この日の白眉となるものだし、日本伝統文化振興財団賞受賞記念DVDを聴いた時から、一度、お二人の生の「柳」を聴いてみたいと熱望していました。演奏自体は素晴らしかったのですが、途中、何カ所かに詞章に省略がありました。その度に聴いている側としては、高まった感情の梯子をはずされ、やり場がなくなってしまう感じがして注意がそがれてしまい、私としてはちょっと不完全燃焼でした。以前、横浜能楽堂で嶋師匠と富助さんの「柳」を聴いた時も似たようなところで省略があったような記憶があるので、割に一般的な省略の仕方だったのかもしれません。でも、(元の話を知っていると)話の接続が若干悪いし、音楽的にも接続が悪いし、演奏している側の方々も、「ここまできたらあそこに移らなきゃ」というその場の演奏以外のところに気を回さざるを得ないので、やりにくかったりするのではと考えてしまいます。


この日はお大名のお座敷を再現するというコンセプトだったそうです。とあらば、お座敷の御亭主である杉本さんには、「曽根崎心中」で近松のオリジナルテキストを尊重することで見せた文楽に対するリスペクトを、同じように「柳」の詞章にも見せていただきたかった、という気が、ちょっとしてしまいました。


もし、今回の三茶三味の趣旨が「普段義太夫を聴かない人が演奏にふれることが大事」ということであれば、むしろもう割り切って、もっとトークの部分を拡充し、義太夫の楽しみ方とか古美術と義太夫の関係のディープな部分を、清治師匠や古美術収集をされるという呂勢さんなども加わり楽しくお話しいただき(今の美術批評や美術館展示では文学や伝統芸能を含めた芸術全般から美術だけを切り離して、他の分野とはまったく影響関係がないかのように論じられるのが私にはいつも不思議)、「柳」の演奏は、筋をちゃんと追うだけの時間がとれないということであれば、いっそ木遣り音頭のあたりからだけでもよかったかも。


文楽という芸能が素晴らしいものであることは間違いの無いことだけど、それをどうパッケージすればもっと多くの人にその魅力が届くのか、色々考えさせられました。和歌やお能、そして文楽を知れば、たとえば日本美術の背後に、一生かけても探求し尽くせないほどの広大な、豊饒なる世界が広がっていることに気づき、その豊饒なる世界を知ることで、日本美術をもっと深く、重層的、多面的に理解することができるのに。

私のつたない仕事上の経験から言えば、メッセージというのは一回ぽっきりでは絶対に伝わらず、何度でも何度でも繰り返し繰り返し、ブラッシュ・アップをしつつ、様々な情報経路から同じメッセージを届け続けることで、少しずつ認知を得ることできるものだと思います。

文楽にもそういうことを体系的・計画的にやってくれるようなパトロンがいたらいいのに…。