国立劇場 文楽2月公演 第3部

2月公演の演目のうち、物語として最もおもしろかったのは、やはりダントツで、『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦の段」だった。

平家物語』によれば平知盛は、壇ノ浦の戦いで、あえなく総崩れとなった平家の有様を見届け、「見るべき程のものは見つ」という言葉を残して入水したという。三十三歳で「見るべき程のものは見つ」と諦観し、自分の人生の幕を自ら降ろすことができる人間なんて、そういるものではないと思う。清盛・重盛亡き後、敗戦に次ぐ敗戦を喫していた一門を兄の宗盛と共に率い、かつて栄華を誇った一門の末路を、ただ為すすべもなく見届けるしかなかった青年は、そう嘯いて自害せざるを得なかった。その晴らすことのできなかった怨念や怒りを描いたのが浄瑠璃の『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦の段」だ。設定を引いているお能の『船弁慶』では、知盛の幽霊は出てくるが、知盛の内面に立ち入ることはない。彼がその怨念や怒りを今度こそ諦観に変え、自ら入水しようとするまでの心の動きを追ったのは、浄瑠璃の工夫だ。

渡海屋の銀平の相模五郎に対する胸のすくような台詞もすばらしいし、白糸縅の武将の装束で舞を舞いながら語る「舟弁慶」の後場から引かれた知盛ノ幽霊の名ノリの謡も、空気を一変させ、観る者に厳粛でありながら颯爽とした印象を与える、効果的で大好きな場面だ。

今回、改めて感じ入ったのは、平家の敗戦を知った典侍局が安徳帝を入水させようとして、渡海屋の屋体から船着き場に向かう時、黒御簾からは雨音を表す太鼓の音が聞こえ、典侍局が桧扇で安徳帝に降り懸かる雨を避けていた場面だ。あの場面は夜であるだけでなく、『船弁慶』と同じ、暴風雨の中の話なのだ。

船着き場に着くと、典侍局は安徳帝に伊勢の天照大神に暇乞いをし、西の仏様に向かい十念を唱えるよう促す。その後、安徳帝は「今ぞしる」の御製を詠む。

その時、典侍局は思わず、

オヽお出かしなされた、よふお詠み遊ばした。その昔、月花の御遊の折から、か様に歌を詠み給はゞ、父帝は申すに及ばず、祖父清盛公、二位の尼君、取りわけて母門員様、何ぼう悦び給はんに、今はの際にこれがマア、言うに甲斐なき御製や

と掻き口説く。この言葉により、平家がその栄華の全盛を極めた頃の様子が眼前に鮮やかに浮かぶ。夜桜を愛でる贅を尽くした宴の最中、悦に入って一門や姻戚となった天皇家を見やりながら盃を傾ける清盛、その横で嬉しそうに孫の安徳帝をあやす二位の尼、祖母と帝の様子を見ながら微笑む建礼門院。その栄華がいついつまでも続くと思われていたのに、清盛も二位尼も亡くなり、建礼門院は入水するも源氏に捕らわれ、落飾し、大原で念仏修行の日々を送っている。そして、いやしき舟問屋の娘に身をやつした安徳帝は今、嵐の中、唯一の後ろ盾となる知盛をも失い、その御製は辞世の句となろうとしているのだ。

私自身、これまでは、平家はなぜ、最期に安徳帝を入水の道連れとしたのか、疑問だった。母が平家出身とはいえ、安徳帝天皇という位にあることを考えれば、道連れにすべきではなかったのではないだろうか。しかし、今回「大物浦の段」を見ていて、知盛は建礼門院の兄であり、安徳帝にとっては伯父にあたることに気がついた。結束の堅い平家の人間としては、源氏のはびこる世に後ろ盾のない安徳帝ひとりを残し置くことなどできないということだったのだろう。

しかし、『義経千本桜』の「大物浦の段」では、入水の寸前に義経が現れ、安徳帝典侍局を救出してしまう。

その後、知盛は流れ矢が激しく飛び交う中、自らも何本もの矢の刺さったまま矢疵を負いながらも、安徳帝典侍局を探しに渡海屋に戻ってくる。そこに再び安徳帝典侍局を連れた義経が現れ、最初から知盛の並々ならぬ骨柄に平家の落人であると看破し、その計略も察していたこと、安徳帝を助け奉ったが、源氏が引き取ったとはいえ気遣いは無用であることを述べる。

それでも「討つては討たれ、討たれては討つは源平の倣い。生き代はり死に代はり、恨みをなさで置くべきか」と無念の顔色に目は血走り、髪逆立ち、という恐ろしい形相で尚も義経に立ち向かおうとする知盛に対し、安徳帝はこの憎悪の連鎖を終結させる詞「朕を供奉し、永々の介抱はそちが情、今日またまろを助けしは、義経が情けなれば、仇に思ふな知盛」を知盛に投げかける。

この詞が典侍局に自刃を決心させ、帝の詞と局の自害が知盛に追い打ちをかけ、闘争心をくじく。その結果、知盛は、帝をかくのごとく憂艱難に巻き込んだのは清盛が外戚の望みあるによって姫宮を御男宮と言い触らし、権威をもって御位につけ、天道を欺き天照大神に偽り申せしその悪逆。積り/\て一門我が子の身に報うたか、是非もなや、と嘆く…はずなのだが、そこの箇所はざっくり削除されていて、今回は言及されない。

原作ではそう悟った知盛が自ら平家の悪逆の歴史を海の底に沈める姿に感動を禁じえないのだけど、少なくとも今回はその部分には触れられず、残念。ここの部分は岩波の新古典体系93の『竹田出雲・並木宗輔 浄瑠璃集』には、近代長きにわたりカットされてきたが昭和五十六年に復活(綱大夫・弥七はレコードでそれ以前に復活)とある。なぜカットされたのだろう?徳川時代に書かれた浄瑠璃だから、平家の知盛が清盛や平家一門の罪を認めること自体に差し障りがあることはないと思う。となると、女宮を男宮と偽って帝にしたという部分が、天皇崇拝が過剰に高まった時代に嫌われ、削除されたのかもしれない。

しかし、ここの部分がないと、この「渡海屋・大物浦の段」の物語は並木宗輔が意図したものと全く変わってしまうと思う。この部分も含めたものも聴きたいと思った。