国立文楽劇場 夏休み文楽特別公演(その1)
夏の文楽は好き。ひとつには、衣装が涼しげな白紋付になるから。以前も東京の9月公演では白紋付の時期があった気がするけど、最近は白紋付は見てない気がする。私が見る時期が遅すぎるのかな?ともあれ、舞台の上の方はスポットライトを浴びて暑いかもしれないけど、見ている方はすずやかな気分になれる、素敵な伝統です。演目的には二部が断トツに充実した夏狂言でした。
第一部
今年も良い子の皆様の陰から拝見させていただきました。
五条橋
簑紫郎さんの牛若丸と玉勢さんの弁慶。このお二人の組み合わせは、バランスが良くて良いですね。簑紫郎さんの牛若丸は、すばしっこく力強い。怪力の弁慶に「可愛がつて下んせ」と言わせるくらい、小気味いい牛若丸なのでした。
解説
自ら「40過ぎてもオトコマエ」と称する玉翔さんの解説。果たしてこのキャッチフレーズでよい子のお友達の歓心を買えるのか疑問…と思ったのですが、実はよい子のみなさんのお財布の紐を握っているママ世代狙いなのだと気づき、納得。さすが商人の町、大阪の古典芸能の担い手です。
今回は解説とはいっても、時間の関係からか、解説はすっとばして体験コーナーから。なんと今回はよい子の皆さんのサイズに合わせて、人形も小型化!あの小僧さんの人形、見たことある気がするな。天網島時雨炬燵かな?小僧さんサイズになってもやっぱり人形体験はやはり大変みたいです。今回も大ウケの人形体験になりました。
新編西遊記GO WEST!
夏休み公演第一部の定番といえば、西遊記。今回は新作とのこと。三蔵法師一行はすでに天竺に入国していてそこで事件が起こるという設定で、インド風の舞台美術が素敵。ところが出てくる天竺の人達は全然顔が濃くないし、話も長くないし、ちっともインド人ぽくない。とゆーか、むしろ中国人。要するに、西遊記は中国で書かれた話なので、昔の中国人が天竺を想像したらどうなるかを昔の日本人だったらどう表現するかを現代の日本人が考えたってことなんだろう。ややこしや!
今回は緒八戒に思いもかけない秘密が!というお話でした。こんだけ毎夏西遊記を観てるのに、未だに西遊記の全容が分かりません。いつかちゃんと読もう…。
第二部
薫樹累物語
私は怪談やホラー映画などの怖い話は全くだめなので期待していなかったのですが、今回の公演で最も密度の濃い物語と思われたのが、この第二部の夫婦の悲劇を描いた秀作、『薫樹塁物語』でした。夫婦のお互いへの情が仇となって悲劇に繋がっていく場面展開と心理描写は、時代が変わっても生々しい感情を引き起こし、胸に迫るものがあります。もっと頻繁に上演されても良い作品のように思います。
この豆腐屋、埴生村、土橋の段で語られる一連のエピソードの中でも胸を打つのは、やはり埴生村の段と、土橋の段で語られる塁の物狂い、絹川の苦悩だと思う。
埴生村では、塁が夫の絹川を助けるために自分の自慢である器量を生かして身売りをしようとするが、江戸吉原の女郎屋から、非常に心ない方法で、塁の相好の醜さを知ろしめされることになる。歌舞伎役者ののしほ似の美しさが自慢だと思っていた自分の顔が、知らないうちに「ぐるり高のちよつぽり鼻、顔にべつたり痣があつて、しかも出歯で横から禿が見へて」という顔立ちになっていたと知ったら、相当のショックだろう。しかも、男尊女卑が当たり前で、夫に従うしかなかった当時、女性の美醜は女性にとって、今以上に自分の精神的な基盤を根本から揺るがすような問題だったのではないだろうか。しかも、絹川は醜くなった塁を決して疎んじることはなく可愛がり、返って彼女に決して鏡を見ないように言ったのだ。そして塁はそんな絹川の心遣いも知らず、器量自慢をしていた。二重のショックを受けた塁は絹川で入水しようと、土橋を目指す。
土橋の段では、絹川と絹川の主人である歌潟姫を訴人して金をせしめようとする金五郎の詮議を逃れるため、「上方で深ふ言ひ交した女房」と偽る。それを偶然、稲村に隠れて聞いていた塁は、嫉妬に駆られ、歌潟姫を殺そうとする。そこに金五郎を追いかけていた絹川が戻ってきて塁に事実を話し誤解を解こうとするが、塁は聞き入れることは出来ず、狂ってしまう。この物語の中では高尾の執着のせいで塁は狂ったということになっている。しかし、姉の死という悲劇の中で、彼女を支えてきた彼女自身の器量と夫の愛情という、自己の拠って立つ二つの礎が二つとも瓦解したとき、塁は狂ってしまうしかなかったのは、今の人間にも分かる。この時代はそれを怨霊の呪いと理解したのだろう。
そして絹川も、彼女のためを思って醜くなったことを言わなかったのであり、また、その後、埴生村に来てしつけぬ百姓仕事や不自由な世帯での苦労も厭わなかった心優しい塁のことを以前の美しい塁よりも「心の器量は百倍」と思ってきた。塁に愛想を尽かしたことなどなかったという絹川の告白も、すでに狂気にとらわれた塁には通じず、是非なく、塁に手をかけざるを得ない状況に陥ってしまう。その絹川のやるせなさも、塁の絶望同様、観る者に胸に迫るものだった。
土橋の段の最後の部分は、今回は、「悔やみながらに止めの鎌、涙塁が物語今残るも哀れなり」と、絹川が塁を殺したところで終わっている。今回、事前に鶴澤八介さんのサイトの床本を読んでいたが、その床本にはその続きがあったので、絹川が塁を殺したところで終わるのは非常に興味深く思った。そして、このような終わり方は、塁の精神が壊れていく様と、塁を殺さざるを得ない状況に陥った絹川の心の動きを追ったドラマに焦点を当てるのであれば、ありだと思う。というのも、八介さんのサイトの床本のバージョンでは、段切りは、高尾・塁姉妹を二人とも自分で手にかけてしまった絹川の悔恨や館の様子を伝えに京から下って来た三婦の嘆きなどに関してかなり端折った処理をしているからだ。そのため、殺しに至るまでの筋の運びが優れているのに、詞章を読む限りでは、急に最後の最後でご都合主義な展開になって終わる印象を与える。そういう意味では、筋を中途半端に端折るよりは、大胆にも今回のように絹川が塁を殺すところで終える方がむしろ納得感があり、この演出を考えた人は、素晴らしいセンスの持ち主だと思う。
この物語を観ながら、同じように夫と浮気相手の女への嫉妬に狂った女性の執心の物語である、お能の「鉄輪」を思い出してしまった。「鉄輪」は『平家物語』の「剣の巻」に出てくる宇治の橋姫伝説を元にしている。「鉄輪」の女も「塁物語」に勝るとも劣らぬほどの激しい嫉妬の炎を燃やし、彼女は執心の鬼になって夫を取った女性を呪い殺そうとする。一方で、「鉄輪」と「塁物語」の一番大きな違いは、「鉄輪」は夫の存在感がほとんど無い点だ。間狂言で一応、夫本人が出てくるのだが、夢見が悪いので安倍晴明に祈念を請うぐらいで、鉄輪の女のことをどう思っているのかも定かではない。すべては鉄輪の女の一人相撲で、ひとしお悲しい。
その点、『塁物語』では、絹川は塁のことを愛していることが伝わってきて、塁の方が鉄輪の女に比べればまだ幸せだ。だからこそ、二人の愛情がすれ違い、悲劇となる物語が一層、哀れに思えるのだった。
床は咲甫さん・團七師匠、千歳さん・富助さん、靖さん・錦糸さん、呂勢さん・清治師匠という、それぞれに迫真の語りと三味線でした。人形は絹川(与右衛門)が玉男さん、塁が和生さん。床も人形もそれぞれの段に合ったベスト・キャストでした。今回の公演で簑次さんが簑太郎さんに改名されていました。お父上である勘十郎さんの前名ではありませんか。これからの活躍が楽しみです。