9月文楽公演 一谷嫩軍記通し(その2)

今回の公演を機に熊谷陣屋を読み直して、弥陀六=弥平兵衛宗清の件で気がついたことがあった。

私は今まで敦盛の首実検の後、宗清が絡む一連のエピソードが何故あるのか分からなかった。首実検だけで十分「熊谷陣屋の段」で表現すべきことは語られているような気がしていたのだ。また、宗清のタテコトバの部分や段切の「もし又敦盛生き返り」以降の宗清の詞も段切のあの場面でどういう効果を狙って書かれたのか、良く分からなかった。『卅三間堂棟由来』の段切にも意味不明な箇所があるので、それと同様、何か後世に編集が入って分からなくなってしまったりしたのだろうかと思っていた。

しかし、宗清について改めて考えてみると、まず、彼の事績で最も知られているのは、この浄瑠璃の中でも「池殿といひ合せ頼朝を助け」とある通り、平治の乱でまだ少年の源頼朝平清盛に殺されそうになったところを、宗清は池禅尼と共に助命を求め、伊豆への配流となったという件だ。また、以下のエピソードは元々近松の創作だけれども、『源氏烏帽子折』の中で宗清は、雪の中、伏見の里をさまよう常盤御前と頼朝、義経等の幼子達を助けたことになっている。この『源氏烏帽子折』の二段目は、地方の人形浄瑠璃の演目にも結構残っているようなので、恐らく『一谷嫩軍記』の上演当時も観客は皆知っているエピソードだったのだろうと思う。

義経がその宗清に敦盛を託すというのは、要するに、宗清が頼朝・義経を助命したのと逆パターンを同じ宗清にさせようということなのだ。この「熊谷陣屋」では、少なくとも作者の並木宗輔にとっっては、敦盛を託す相手は宗清でなければいけなかったのだと思う。ここで宗清に敦盛を託すことで、宗輔は現世の修羅道、戦に次ぐ戦による負の連鎖の輪廻とそこから解脱しようとしている熊谷を描こうとしているのではないかと思う。

平家物語の世界では、そして後世の人々には、武士は死ぬと必ず修羅道に落ちると信じられていた。だからお能では武将がシテの曲を修羅物という。修羅道というのは、地獄の六道のうちのひとつで、戦が永遠に続くところであり、修羅道に落ちたら、戦で死んでもまた何度でも生き返って戦を続けなければならない。

後白河院の御落胤である敦盛は、皇位継承権があり、殺してはならないというのが義経の見解だった。義経が敦盛を六弥陀に託したことにより一見、東宮になる可能性のある人を救ったように見えるが、六弥陀は実は平宗清という平家の武将である。つまり、宗清に託すということは敦盛は平家の武将として、いつか、頼朝がそうしたように、「敦盛生き返り、平家の残党かり集め、音を仇にて返す」可能性がある、ということなのだ。宗清は、宗清を起点として、頼朝による源氏再興と鏡像を描くように敦盛によって平家が再興する可能性を示唆しているのだ。これは永遠に続く源平の戦の輪廻、この世の修羅道だ。

ところが熊谷は「その時はこの熊谷、浮世を捨てヽ不随者と源平両家に由縁はなし。互いに争う修羅道の、苦患を助くる回向の役」と言う。この熊谷の回向は同じ回向でも弥陀六が石塔を立てて行った回向とは異なる境地だ。

弥陀六は、頼朝・義経を助けたことによって自ら「獅子身中の虫」となって平家滅亡の道筋を開いた。彼の回向は、悔恨と怒りが篭められたものだったのだ。だから、敦盛を得たら折を得て心の還俗をし、弥陀六から宗清に戻ると言う。そして源平の戦に立ち戻って行こうと言うのだ。

しかし、熊谷は「武士の高名誉を望むも子孫に伝へん家の面目、その伝ふべき子を」失ってしまった以上、「源平両家に由縁はなし」という心境で、彼自身還俗の望みは無い。彼の唯一の望みは、この世の修羅道の輪廻から解脱し、小次郎と一つ蓮の縁を結ぶことがなのだ。(お能の「敦盛」では蓮生という名は敦盛と同じ蓮に生まれることを意味しているが、この浄瑠璃では小次郎と同じ蓮に生まれるという意味に変換されている)

敦盛の首実験で終わることも可能だった熊谷陣屋に宗清の件を持ってきた宗輔は、きっと熊谷の出家に、非常に大きな意義を見いだしていたのだと思う。そして、段切の詞章に暗さがないのは、この出家という結末に対してシニカルな見方をしておらず、どちらかと言えば一種のハッピーエンドだと思っていたからではないだろうか。宗輔は僧侶だったが還俗して浄瑠璃作者になったといわれるが、その彼が最期に書いた作品で主人公の熊谷は出家する。宗輔はどういう思いを以て「熊谷陣屋の段」を書いたのだろう。