国立劇場 2月文楽公演 第1部

昨年12月の忠臣蔵に引き続き、50周年記念公演と銘打たれた公演で、近松特集です。改めて近松の大きさを感じました。

平家女護島 六波羅の段、鬼界が島の段、船路の道行より敷名の浦の段

2月公演の演目のうち、私の中で物語として一番面白かったのは、『平家女護島』の「鬼界が島の段」。名作です。今回は「鬼界が島の段」の前にある「六波羅の段」という俊寛の妻、あづまやが自死する場面も出て、初めて観ました。この段で後続の「鬼界が島の段」に影響のあるエピソードは、1.相国入道が悪いやつという点と、2.あづまやが自死したという点ですが、このことは「鬼界が島の段」でも分かるようになっているので、「六波羅の段」があると「鬼界が島の段」がより分かりやすくなるというほどのことはあまりありません。が、さすが、錦糸さんの三味線で聴く靖太夫さんの語りは面白く、浄瑠璃は床が肝心だなと思わせられました。
「あづまや」という人物は近松の創作ですが、なぜ、近松は「あづまや」を創作したのか、いつも興味深く思っていました。また、近松俊寛はあづまやという恋女房を持ち、丹波少将と千鳥の祝言を祝い、自分一人島にのこり千鳥を船に乗せるというような、情の深い、人間味のある人物として描かれていることも不思議に思っていました。というのも、俊寛は「平家物語」でも、お能の「俊寛」でも、冷酷であまり情というものを感じさせない人間として描かれており、唯一、情を感じさせるのが、「平家物語」の中で、鬼界が島に一人残された俊寛の下を有王丸が訪ねて行った時、娘が亡くなったことを知り、生きる希望を失い、程なく亡くなってしまうところです。この設定を敢えて変えた近松の狙いは何だったのだろうと思っていました。

俊寛が何故、平判官や丹波少将と共に鬼界が島に流されたかといえば、後白河法皇の下、平家転覆を狙って鹿ヶ谷の山荘で謀議したかどで、島流しとなったためでした。しかし、当時、平家は我が世の春を謳歌し、平清盛公はその専横な振る舞いにより恐れられていました。そのため、その清盛公に反旗を翻すというのは、勇気のいる行為であり、かつ、見方をかえれば、悪逆で国家を乗っ取った家臣から主権を天皇家に取り戻すという行為と見なすことが出来るかもしれません。俊寛は『平家物語』には悪しきざまに書かれていますが、近松は、そのことを踏まえ、「それだけの人物ではないに違いない」と、想像したのかもしれません。また、同罪の三人のうち俊寛一人だけ敢えて赦免されないというのも、俊寛本人も全く承服できなかったでしょうが、後世の人間にも得心のいかないところです。近松は、「俊寛は国家を掌握する相国入道が個人的な遺恨を持つほどの人物であり、かつ、俊寛の妻を巡る鞘当てのようなものがありそれが相国入道の恨みをかったとしたら面白い」…という風に、想像してみたのでしょうか。近松俊寛は究極の犠牲的精神で目の前の人を助ける人であり、観るたびにひどく心を揺さぶられます。

「船路の道行より敷名の浦の段」は、初めて観ました。以前、「鬼界が島の段」で俊寛を残して行ってしまった一行はその後どうなったのだ?と知りたくなり古典全集で「平家女護島」を読んでみたところ、千鳥がすぐ死んでしまい衝撃を受けたので、是非観てみたいと思っていました。この段は、藤蔵さん・咲甫さんがシンの掛け合いで、迫力があり、聴いていて面白く感じます。ただ、話としてはひねりもないので、観ている方はちょっと中だるみしてしまうかも。これから千穐楽までの日程で、床・人形とも、どう工夫されるのか、楽しみです。

人形は和生さんの俊寛が素晴らしかったです。「鬼界が島の段」の俊寛は、頬が痩け、目はくぼみ、髪も振り乱しているので、年をとった人のように思えてしまいますが、実際は三十代で亡くなっているんですよね。歌舞伎でもお能でも俊寛は老人に見え(多分、平安時代の三十代だから老年に近いという解釈か、年齢不詳として演じられているのでしょう)、俊寛は三十代だという実感がわきませんでした。が、和生さんの俊寛は動きに俊敏なところがあったりして若さの片鱗も感じられるので、私は初めて俊寛のことを、「三十代でありながら、鬼界が島の過酷な環境で、まるで老人のように見えるようになったのだ」と感じました。和生さんの俊寛は意外な配役のように思いましたが、パンフレットの写真をみると、文雀師匠も俊寛をされていたんですね。