国立劇場 5月文楽公演再見

今週末、一部と二部を再見して来ました。

第一部

再度拝見して、松王丸の詞で、今まで真意がよく分からなかったものが少し分かった気がした。


寺子屋の段で、松王丸が、小太郎が菅秀才の身代わりと知り、につこりと笑ったことを親に代わって恩送りをしたと褒めた後、「思い出すは桜丸、御恩送らず先立ちし、さぞや草場の陰よりも、うらやましかろ、けなりかろ。倅が事を思ふにつれ、思ひ出さるゝ出さるゝ」という部分。いつもここを聴くとき、松王丸は何故桜丸のことをここで思い出すのだろうと思っていた。


再度拝見して、松王丸もまた、偶然の重なる中、桜丸と同じように悲劇を経験したからこそ、彼のこと思い出したのだと思った。


松王丸は、訴訟の段までは、恩を受けた管丞相と主の時平が敵対しようとも、自分の主である時平に遣えることが忠義と考え、その忠義を全うするため、白太夫に勘当を願い出た。ところが、白太夫は「蟹忠義」の講釈をし、時平への忠義は親に背くものだと一喝する。そして桜丸の切腹。白太夫と梅王丸は管丞相を追って、太宰府に赴く。


そのような中で、松王丸は自分の不明を悟ったのだろう、作病を口実に時平に暇乞いをし、主従の縁を切ろうとした。ところが、時平は主従の縁を切るのは「菅秀才の首みたら」という交換条件を持ち出す。今更、「実は作り病でした」と言う訳にもいかない。松王丸も松王丸で、思わぬ形でのっぴきならない状況に置かれたのだ。その結果、彼は縁を切ったはずの親の詞に従い、苦渋の選択で、小太郎を身代わりにすることに決めたのだ。


そしてあの「思い出すは桜丸、御恩送らず先立ちし、さぞや草場の陰よりも、うらやましかろ、けなりかろ。倅が事を思ふにつれ、思ひ出さるゝ出さるゝ」という詞は、松王丸一流のレトリックで、桜丸を悼んだものだったのだと感じた。松王丸にとって、小太郎の身代わりはこの上もない悲劇ではあるけれども、小太郎という大きな犠牲によって、彼はともかくも管丞相の恩を送り忠義を尽くすことが出来た。しかし、桜丸は管丞相讒訴の原因を作ってしまっただけでなく、恩を返すことも出来ず、その義心を表すには生害するしかなかったのだ。小太郎を失ったからこそ、三つ子の片割れ同士だからこそ、桜丸に深く深く同情したのだろう。


第一部は、寿柱立万歳を含め、どの段も更に面白くなっていました。


また、口上では、勘十郎さんが、ブラジル公演のお話をしていて、それが感動的でした。文楽初のブラジル公演の際、二回公演が二回とも満員御礼で、会場に入ることが出来ない人が沢山いたそうです。その中に文楽をどうしても見たいのだといって泣き出すおばあさんまで出たそうで、急遽、三回目の公演を行い、それも大盛況だったのだそうです。


ブラジルといえば日系移民が多い国。その文楽をどうしても見たいといって泣いたおばあさんが日系人なのか、仮に日系でも一世か二世か全く分からないけれども、そのおばあさんにとっては、文楽は、郷愁の彼方の、自分のルーツである日本を象徴するものだったのかもしれません。ひょっとしたら子供の頃、親に手を引かれて観に行ったりした思い出があるのかもしれません。さらにさらに、ひょっとしたら、浄瑠璃の中の不器用に生きる登場人物に自分の人生を重ねながらブラジルで生きていたのかもしれません。そんなおばあさんにとって、せっかく文楽を観ることができる機会が目の前で閉ざされて、今生では二度と観ることができないかもしれない、死んでも死にきれないという気持ちになって泣き出したのかもしれません。本当に短いお話でしたが、「遠野物語」のように、心に染みたお話でした(とはいっても、襲名口上の席なので、全然しみじみモードでは無く、私が勝手に妄想を膨らませて勝手に感動してただけですが)。


第二部

第二部の加賀見山旧錦絵も、ますます面白くなっていました。前回見たときは、以前観た文雀師匠のお初ちゃんや駒之助師匠の長局と違っていて違和感を感じてしまったのですが、今回は勘十郎さんのお初ちゃん、千歳さん・富助さんの長局を楽しむことが出来ました。初日近くよりお初ちゃんはずっと男前になっていました。又助住家もすごかったけど、それに勝るとも劣らない迫力でした。今年の2月、赤坂文楽の勘十郎さんのトークで、三業が最高のパフォーマンスをした時に降りてくる「瞬間」の話がありましたが、まさにその「瞬間」に立ち会った気がしました。本当に素晴らしかったです。


それから、和生さんの尾上も、良かったです。遣われている人形の首は多分、文雀師匠のものだと思います。長局で、お初を実家への手紙の遣いに追いやった尾上の、一人思い詰めた表情には、上村松園の「焔」に描かれた六条御息所のごとき生々しい情念が籠もっていました。文雀師匠が遣っていたときには、この首にこんな表情を見たことのなかったけれども、その尾上の首は、紛れもなく生きた性根の宿った人形だけが持つ表情をしていました。


こうして、同じ人形の首が弟子だった人の手に渡り、別の性根を宿した人形として生まれ変わるのを見るのは、まるで輪廻転生を見るようで、何ともいえず感動的で、感無量な光景でした。