国立劇場小劇場 文楽9月公演 第一部 生写朝顔話


宇治、明石などの源氏物語のキーワードがちりばめられ、古典や歌、扇、楽器が出てくる優しい物語であるだけでなく、浜松小屋の段のように、落ちぶれてしまって泣きはらして盲目になって仕舞った深雪ちゃんの艱難辛苦の極みと浅香の死というような悲劇があり、かと思うと、笑い薬のようなチャリ場もあり、また音曲的にも義太夫節にしては珍しく優美で…と、すごく好きな物語です。

この物語の全容は一体どうなっているのか、いつも知りたいと思っていたので、今回は上演されている場面以外も読んでみて、色々、疑問が解消されました。現行の朝顔話は深雪ちゃんのストーリーが中心で、阿曾次郎くんの側の物語を含む他の場面がばっさり削除されているのですね。阿曾次郎くんと深雪ちゃんのすれちがいも阿曾次郎くんの物語を知ると、仕方ない状況で、うまく仕組まれた物語だなあと感心してしまいます。


宇治川蛍狩りの段

深雪ちゃんと阿曾次郎さまが初めて出会うのがこの段。詞章の冒頭に出てくる「通円」は狂言の演目です。これはお能の「褚政」をもじったもので、宇治の川辺にあるという有名な茶店の主人「通円」が自分の茶屋の繁盛ぶりを、真面目に、かつ、面白おかしく語るという内容です。その名前を出すことで、観ている人に、以仁王の乱を首謀し、平等院で自刃したという源褚政を連想させます。

阿曾次郎さまと風雅の友である月心は、蛍狩りの後は平等院に行って、当時の超有名観光スポット、頼政が自害した場所だという扇の芝(芝が扇の形になっているところ。頼政が自害したころは切腹の作法として扇を敷くというのは無かったそうだけど、いつのまにやらそういうものが出来たそう。)に行くようです。白洲正子のエッセイで、「平等院は朝日に照らされて金色に輝くたたずまいを見るのが本当」というのを読んだ気がするけど、蛍狩りの後、宿に戻ってそれから平等院に行くとなると、月心と阿曾次郎さまも朝日に照らされる平等院を見に行くのかもしれません。

そして、月心が請うにまかせ、阿曾次郎さまが。さらりと和歌を一首したためます。その和歌が、

諸人の行きかふ橋の通ひ路は、肌涼しき風や吹くらん

というものです。

これに対して、月心が「ハハア、面白きこの夷曲歌(ひなうた)。古今の本歌を取りしは秀作々々」と褒めます。そのときいつも、「古今の本歌って、どれのこと?」と疑問に思いつつ、古今集にそんな歌があったかなーと思うだけで調べないままでした。今回、せっかくなので、真面目に古今集を漁ってみたところ、夏歌の一番最後に、凡河内躬恒

六月(みなつき)のつごもりの日によめる


夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風やふくらん

がありました。古今の本歌とは、これの可能性が高い気がします。

この古今集の歌の内容は、6月つごもり、つまり末日は、昔のカレンダーでは夏の最後の日、翌日から秋になるので、「夏と秋が交差する空の通り道では、片方だけ秋の涼しい風がふくのかしらん」というものです。阿曾次郎くんは、この歌の「夏と秋の通ひ路」というのを宇治川に蛍狩りの観光客がいっぱい来ている様子に置き換え、「片方(かたへ)」を「はだへ」としたんですね。ふむ。確かに即興で作ったにしては秀作です。そしてこの即興の歌が古今和歌集本歌取りだと即座に気がつく月心も、相当な和歌マニア。さすが風雅の友です。


そしてその和歌をしたためた短冊は、風に乗って深雪ちゃんのいる御座船に散り入ります。
一方、深雪ちゃんの方では、その短歌に気づかず、三味線の弾きながら、唄をうたっています。その声と曲に心を奪われる阿曾次郎くん。その様子を見てとった月心が、冷やかします

実はこのひやかしの後、月心はこの時、阿曾次郎くんを、秋月弓之助、すなわち深雪ちゃんのお父様に入り婿として紹介しようとしている旨を伝えるのですが、その部分は公演では、ばっさり省略されているのですよね。演出上の配慮として、最初からそのことを明かさない方が、観客がはらはらできるから、ということなのかもしれません。そして、この段の終わり、阿曾次郎くんとの別れを惜しむ深雪ちゃんに対して「最前扇に認めし、朝顔の和歌をわれと思ひ、巡り逢ふ時節を待たれよ」と言う場面があります。阿曾次郎くんは、宇治川蛍狩りの段で、この作品のテーマとなる「露のひぬまの朝顔を」の唄を一輪の朝顔が描かれた扇に書きしたためたり、深雪ちゃんから告白されて良い仲になったりするのに、ちゃんと再会する約束もせずに「巡り逢う時節を待たれよ」って何事?と深雪ちゃんが思うのも当然です。が、実のところ、阿曾次郎くんは月心から深雪ちゃんのお父様に入り婿として紹介されることになっているから、「生得ご遠慮深いお人(笑い薬の段より)」の阿曾次郎くん的には、そのことを自分から話すのも話の順序的にいかがなものかということなんでしょう、「巡り逢う時節を待たれよ」という遠回しな言い方をして別れるわけなんですね。深雪ちゃんにはおぼつかない約束としか思われない形での約束を交わす阿曾次郎くんにも、それなりに事情があったんだと納得しました。


>明石浦船別れの段浜松小屋の段

この物語はストーリーの流れとしては宿屋の段がクライマックスなのかもしれないけれど、浜松小屋こそが白眉。この段があるから、名作として残ったのだと思います。深雪ちゃんが泣きはらして盲目となり、艱難辛苦の極みの中にいる場面です。


「げにや思ふこと、まヽならぬこそ浮世とは、誰(た)が古(いにしえ)の託(かこ)ち言」で始まる床は、冒頭はメロディアスな旋律で始まりますが、深雪ちゃんの出から曲調が一変します。簑助師匠の深雪ちゃんの表情には、以前の段の「見目形人に優れた」華やかで一本気な深雪ちゃんの面影は無く、やつれて憔悴しきった瞽女となって、とぼとぼと杖を頼りに蒲鉾小屋に歩いて来ます。簑助師匠の深雪ちゃんは、型とか首とか、そういった人形芝居の概念を越えたところにいます。深雪ちゃんは生きていて、私たちは芝居ではなく、彼女の人生を陰から見ているような錯覚を覚えます。そしてその深雪ちゃんを背後から静かに愛情をもって見守る簑助師匠。人形と人形芝居が愛おしく感じる場面です。

また、清治師匠の三味線は華やかさを排し、深雪ちゃんの厳しい境遇を伝えます。


そこに里童達がやってきます。この里童達が相当な悪ガキで、「道行恋苧環」に出てくる里童みたいな顔しているのに、寺子屋の悪ガキ達同様、深雪ちゃんをいじめにかかります。あばれっぷりはすごいのですが、さすが簑助師匠の人形に手出しを出す人形はほとんどおらず、初日近くはよくよく見ると、せいぜいボス格の人形が深雪ちゃんの肩を棒でちょんと軽く触れるだけでした。が、簑助師匠からのご指導が入ったのか、千穐楽近くでは、全員が深雪ちゃんを打つ振りをして、深雪ちゃんに棒でかるーく触れていました。わはは。さすが、人間国宝の持つ人形を、寺子屋のよだれくりをいじめるみたいにいじめる訳にはいかないのでした。それに深雪ちゃんは女の子だし。


悪ガキ達が去ると、深雪ちゃんは自分の落ちぶれた境遇を嘆きます。そこに「あら尊 導き給へ観音寺 遠き国より運ぶ歩みを」の御詠歌を唄いながら歩く浅香(和生さん)が現れます。

ところが深雪ちゃんは最初は浅香と気づいても、わざと深雪は死んだと言いなし、浅香を帰らせようとします。浅香がその場を立ち去ると、深雪ちゃんはこらえきれず、小屋から転がり出て、「コレイノコレ浅香。今言うたは皆偽り。尋ぬる深雪はわしぢやわいの」と絶叫します。深雪ちゃんは、自分の落ちぶれようを見せたくないがために、嘘をついたのでした。懐かしい浅香が海山越えて探しに来てくれたのに、素直に自分だと名乗ることが出来ない身を切るような悲しさで、深雪ちゃんは身もだえして泣き崩れます。しかも、自分のために母が亡くなり、自分は母の命日すら知らなかったのでした。「親々の罪ばかりでもこのように目がつぶれなくて何とせう」と正体無く泣き伏します。


その様子を陰から見ていた浅香は、思わず飛び出し、やっと深雪ちゃんと再会を果たします。再会にお互い泣き崩れる二人。観客もやっと浅香が深雪ちゃんを救ってくれると安堵しますが、感動的な再会でほっとするのもつかの間、今回は上演されない「摩耶が嶽の段」で、深雪ちゃんを百両で買って遊里に売ろうとした人買人、輪抜吉兵衛(玉佳さん)が現れ、再度、深雪ちゃんをさらおうとする。浅香は輪抜吉兵衛から深雪ちゃんを守るために、仕込み刀を抜いて戦うが、結局、浅香は傷を負って、絶命してしまう。最後まで、深雪ちゃんを助けようという忠義と母性一筋の浅香、また一人になってしまった深雪ちゃん。

簑助さん、和生さん、清治さんと、役者が揃い、また、呂勢さんの熱と情の籠もった語りも、この段にすごくマッチしていて、今月、最も心に残った段でした。


島田宿笑い薬の段

咲師匠と燕三さん、そして勘十郎さんの萩の祐仙。面白くないはずがありません。とても楽しみにしていました。勘十郎さんの祐仙は、もう出の部分からおかしすぎます。勘十郎さんのサービス精神があふれる祐仙です。お茶のお手前も、以前、地方公演で玉也さんの祐仙を見たときは真面目にされていていましたが、勘十郎さんの祐仙は、袱紗のさばき方ひとつとっても笑ってしまいます。私もちょっとだけお茶を習ったことがありますが、そのとき、ぼんやりと「変なの」とか「何でこんな風にするのかな?」とか思っていた所作が、ものすごく強調されて表現され、勘十郎さんの観察力やデフォルメして再現する技に感服させられました。
また、勘壽さんの夷屋徳右衛門の、笑い薬の一件の場面での、ひょうひょうとした感じも面白かったです。その様子で祐仙がより一層、滑稽に見えます。さすがのバイプレーヤーぶりなのでした。


笑いの部分は、残念ながら初日近くは咲師匠が本調子ではなく、以前聴いた地方公演での笑いのように、咲師匠の笑い声を聴いて、こちらも堪えきれずに笑ってしまうとうような感じにはならず、残念でした。咲師匠のようにチャリ場が無類に面白いような方でもコンディションが整わないと笑えない、笑いというのはとても難しいのだと思い知らされました。後半に見たときは少しは体調が回復されているように見え、少し安堵しました。


宿屋の段・大井川の段

宿屋の段といえば、今までは嶋師匠の十八番でした。呂太夫さんの宿屋も悪くはなかったのですが、嶋師匠の宿屋の真に迫った迫力ある語りをどうしても思い出してしまいます。

何となく深く物語りに入り込めないでいた流れを変えたのは、靖さんと錦糸師匠の大井川の段でした。迫力と疾走感ある語りで、最後に相応しい語りでした。


人形の深雪ちゃんは宿屋以降は清十郎さんでした。清十郎さんの深雪ちゃんは宿屋の段だけを観る分には良かったと思うのですが、簑助師匠の生身の女の子にしかみえない深雪ちゃんの苦悩を観た後では、どうしてもその差が見えてしまい、割を食ってしまった感じでした。一方、この公演では玉男さんの宮城阿曾次郎くん事、駒澤次郎左衛門関連のエピソードがばっさり省略されていて、阿曾次郎くんの発言や行動が意味不明な部分があるのですが、玉男さんが川蛍狩りの段から一貫して、阿曾次郎くんを細かい所作に深雪ちゃんのことを思う様子を表現されていました。そのおかげで、場合によっては深雪ちゃんが阿曾次郎くんを追いかける一方通行の物語のような展開になりがちな朝顔話を、深雪ちゃんと駒澤次郎左衛門の相思相愛のラブストーリーとして成立させていました。


大井川の段では、深雪ちゃんは、これから関助と共に駒澤次郎左衛門を追いかけるというところで終わっていますが、この先がいつもものすごく気になっていたので、今回は最後まで読んでみました。その結果、段切り近くに駒澤次郎左衛門の主である大内之助が仲人となって祝言する深雪ちゃんと次郎左衛門の場面がありました。本朝廿四孝みたいにとってつけたハッピーエンドではなく、深雪ちゃんがメインのラブストーリーも、駒澤次郎左衛門が解決しようとしていたお家騒動も、両方ともちゃんとハッピーエンドで終わることがわかり、満足です。