NHK古典芸能鑑賞会 融 関寺小町

三連続の雨の週末でうんざりです。が、この週末のNHK古典芸能鑑賞会は、能楽が大槻文蔵師の舞囃子文楽が和生さん、呂勢さん、清治師匠、藤蔵さんの関寺小町、琉球舞踊がということで、わたしの好きな方々のパフォーマンスを一度に観ることが出来る貴重な機会なので、行って来ました。


第一部

開演15分前から、秋の虫の声が仄かに聞こえ、黒い幕の下の方にプロジェクターでぼんやりと白い満月が映し出されます。その月は少しずつ明るくなり、開演直前に正中するという芸の細かさ、さすがNHKならではの映像の演出です。


舞囃子 融

大槻文蔵師の融。藤田六郎兵衛師の笛、大蔵源次觔師の小鼓、亀井忠雄師の大鼓、観世鐵ノ丞師が率いる地謡。観世元伯師が病気休演で、林雄一郎師の代演でした。文蔵師の「融」は、言わずもがなの素晴らしさでした。舞囃子で装束は付けていないので、舞の所作の美しさが際立ちます。亡くなった宝生流の近藤乾之助師の舞を思い出させるような、端正で優美な舞でした。また囃子方も素晴らしかったです。


世の中にはお能でしか表現できない境地があるのだということを、文蔵師の舞と囃子方の囃子によって、改めて痛感させられました。久々にその境地に遊ぶ気分で、お能が恋しくなってしまいます。しかし、働いていると忙しく、今は「幅広く薄く観るよりは」と、捻出した自由時間は文楽でほとんど占められているような状態です。どうにかしてお能を観る時間も作りたいのですが…。


琉球舞踊 諸屯(しゅどぅん)


今回の公演で、最も感銘を受けたパフォーマンスが、この琉球舞踊でした。音楽は、沖縄の穏やかな海ときらきらとした明るい空、風にそよぐ木々の葉音を表現したかのような、繰り返しの多い、ゆったりとした音楽です。明るいだけではなく、そこはかとなく悲しさを秘めた短調の音階がアクセントとなって、ますますその魅力を高めています。


その音楽の中、立方の人間国宝、宮城能鳳(みやぎのうほう)師が下手から舞台に現れます。ゆっくりと少しずつ、着物の褄をとりながら、お能のすり足のようなステップで舞台中央に歩んで行きますが、それ以上の動きはほとんどありません。なのに、その様子に魅入られてしまいます。


舞台中央に来ると、主人公の彼女は正面を向きますが、その表情は、お能の面の増のようでありながら、うっすらと笑みを湛えているようにみえます。正面を向いたまま、ほとんど動きはありませんが、彼女が視線をゆっくりと動かす時、その優しい視線は彼女の深い愛情や心の揺らぎを、彼女が両手を顔の前に挙げ、軽く指を曲げて小さく手踊りをする時、その細く長い指は彼女の恋の葛藤や寂しさを、雄弁に表現するのです。その姿は美人画から出てきたようでもありますが、肉体を持った人というよりはアニマといった方が相応しい究極の女性像でした。


以前、もう晩年で大きな動きも難しくなった先代の雀右衛門が、歌舞伎座の舞踊公演で「雪」を踊ったことがありました。雀右衛門の動きといえば、唐傘を差しながら、顔の角度や手の位置を少し変えるだけでしたが、本当に美しい「雪」でした。またいつかあのような「雪」を観てみたいと思いましたが、能鳳師の「諸屯」で、あの時の雀右衛門の「雪」に匹敵する踊りに出会えました。


文楽 関寺小町


今回、私が最も観たかったのが、文楽の「関寺小町」でした。この前、にっぽん文楽で和生さんの素敵な小町を観たので、是非、文雀師匠が踊った、呂勢さん、清治師匠の床で観てみたいと思っていました。


NHKホールは音が響き、かつ、残響が長いので、普段、国立劇場小劇場や文楽劇場で観る感覚とは異なります。が、藤舎名生さん、藤舎呂船さんの笛と太鼓の後、呂勢さんの謡ガカリ、清治師匠の三味線で始まる関寺小町を久々に聴けたのがうれしかったです。関寺小町は床も素晴らしく、舞も良く、名作だと思います。


そして、和生さんの小町も素晴らしかったのですが、残念ながら、にっぽん文楽ほどの感銘を得ることが出来ませんでした。何が私の中で違和感を感じたところかと考えてみると、一つには小町の女性らしさをあまり感じられなかった点がそう感じた原因のように思われます。文雀師匠の小町は女性の私から観ても可愛いらしい老女でしたが(ちょこんと卒都婆に座る風情、水に映る自分の姿に見入る様子、「恥ずかしや」と袖で顔を隠すところなど)、和生さんの小町は中性的でした。小町の歌を読むかぎり、小町は男性的な大胆さや理知的な部分があり、小町が実在するとすれば、彼女は意外に男っぽいところもあったのではと思います。が、この関寺小町に関していえば、お能の「卒都婆小町」や「姥捨」を響かせた、もっと艶やかな小町なのではという気がします。今回は文楽の直前に宮城能鳳師の素晴らしい女踊りがあったので、ちょっと番組的に不利な順番だったということもあるかもしれません。


それでも、この秋、2回も「関寺小町」が観られて満足でした。そして清治師匠と呂勢さんの「関寺小町」を本当に久々に聴けたことも、しみじみ嬉しかったです。お二人の「関寺小町」を今後も出来るだけ多く聴きたいし、和生さんの関寺小町がどうなっていくのかも、見届けたい。そう思った関寺小町でした。ちなみに、ツレだった藤蔵さんは、さすが師匠の前ではいつもの「藤蔵節」は封印。ちょっともったいない配役でしたが、仕方なしですね。


長唄 二人椀久

長唄を聴く機会が歌舞伎の下座音楽ぐらいの私にとっては、普段、あまり聴く機会の無い東音の方々の演奏。二人椀久の舞踊は私は見たことが無いので初めて聴きました。面白い楽しい演奏でした。


第二部

俊寛


私が観たことがあるのは吉右衛門丈、仁左衛門丈の俊寛、そして文楽俊寛。今回の8代目芝翫丈の俊寛です。今回の芝翫丈の俊寛は私にとっての「俊寛」とはちょっと違ったので、いろんな演じ方があるのだなと面白く思いました。


私にとっての俊寛は「思ひ切つても凡夫心」という浄瑠璃の詞に集約される俊寛像です。

近松の『平家女護島』に出てくる俊寛は『平家物語』に出てくる俊寛像とブレがあり、以前はいつもそのことを興味深く思っていました。『平家物語』に出てくる俊寛個人主義者で現実派、シニカルな面も持ち合わせる、という印象ですが、『平家女護島』の俊寛は、千鳥の「父親と拝みたい」という台詞やあづまやへの恋慕、最後に自分が島に残り千鳥を赦免船に乗せる行為に象徴されるように、情の深い人のように感じます。考えてみると、近松は、「一人残された俊寛」ではなく、自分の意志で「一人残った俊寛」であってさえ、「思ひ切つた」のちにも「凡夫心」が沸くのが人間というものなのだということを描こうとしたのではないかと思います。そして父親的な愛情もあづまやへの恋慕も千鳥を船に乗せるための犠牲的態度も「凡夫心」も、全て「情」の深さから生まれたものと言えると思います。現世を「思ひ切」る人間の強さと、現世にすがる「凡夫心」の弱さは、「情」から生じた表裏一体のもの、同じ人間の一面であることを近松は描きたかったのではないかという気がします。


…というのが私の思い描く俊寛なのですが、今回の芝翫丈の俊寛は、赦免状に自分の名前が無いのを知り、礼紙を見返す手が震えていたり、あづまやが亡くなった時の嘆きや、段切で、いざ赦免船が出て行く時の動揺など、俊?を平凡な人間として描き、平凡な人間が非日常的・究極的な状況に直面したときに見せる人間的な言動に焦点を当てているようにみえました。色々な演じ方があって、面白いです。


終演後、帰りはハロウィーン前で賑わう阿鼻叫喚の渋谷を避け、原宿に出るつもりだったのですが、方向音痴が災いして、渋谷に出てしまいました。が、雨が降っていたので、動けない程の酷い混雑ということもなく、事なきを得ました。


渋谷駅前のスクランブル交差点ではDJポリスが、(曰く)「今宵、この時、この場所で出会った皆さん」に爽やかに語り掛けていて、それまでNHKホールで聴いていた古典芸能の語りとの対比がちょっと面白かったのでした。