歌舞伎座 秀山祭九月大歌舞伎 夜の部 

一、壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)
   阿古屋
   初演: 享保17年(1732年) 大坂竹本座
   作: 文耕堂、長谷川千四
二、新古演劇十種の内 身替座禅(みがわりざぜん)
   初演: 明治43年3月(1910年)、東京市村座
   作: 岡村柿紅
   作曲: 作曲:長唄:五代目杵屋巳太郎常磐津:七代目岸澤式佐
三、秀山十種の内 二條城の清正(にじょうじょうのきよまさ)
    清正館
    二條城
    御座船
   初演: 昭和8年(1933年) 東京劇場
   作: 吉田紘二郎

阿古屋はすごかった。普通、二千人の人前でソロで楽器を弾いて唄をうたったら、神経がそちらに集中して、どうしたって素になってしまいそうなものだが、玉三郎丈は、しっかり阿古屋を演じ続けるのだから、すごい。ただ、義太夫三味線や長唄の三味線と合わせる部分はどうしても、差が出てしまい、興ざめなところもあった。
ひとつ前々から不思議に思っていることは、歌舞伎で合奏となるときに、三味線の音の頭が合わない場合がままあることだ。西洋楽器の場合は、アンサンブルの時に音程とリズムの頭を合わせないのは論外なのだが、邦楽は違うのだろうか。特に清元の唄などは合わせようという意思すら感じられない場合が多く、西洋音楽に耳が慣れてしまっている者が聞くと、正直なところ苦痛だ(慣れなければいけないのかもしれないが)。かと思うと、文楽では、義太夫・三味線共に、西洋音楽の訓練を受けたものでも素晴らしいと思えるほど、西洋音楽の基準で考えても音楽性が高いこともある。阿古屋の演奏をききながら、そんなことをまた考えてしまった。
阿古屋を見ながら意外に思ったのは、阿古屋の性格付けだ。お化粧からの想像で、八重桐とは違うであろうものの、揚巻ぐらいの意地と張りのある女性かと思っていた。ところが、出てきた阿古屋は、意地と張りどころか、虚ろで哀れでさえあったことだ。考えてみれば、もし、まだまだ威勢がいいようであれば、重忠も琴責めなどして放免しようという気にならなかったに違いないのだけれど、あのお化粧を裏切らない阿古屋もそれはそれで面白いのでは、と思った。
阿古屋で気に入ったのは、段四郎丈の人形ぶりと段四郎丈に義太夫を付ける泉太夫さんで、段四郎丈と泉太夫さんを見比べて楽しんだ。そしてツメ人形のような部下たち。あれは、やってて楽しいに違いない。

身替座禅は、期待を裏切らず面白かった。團十郎丈が楽しそうにやっているところが印象的だった。たしかに、客席もうけるし、役者さんも演じていて楽しいだろう。左団次丈の玉の井は恐ろしいのだけど、端々に女らしさがあるのが、すごい。七月に松竹座で見た仁左衛門丈の右京、歌六丈の玉の井の方が好みだけど、楽しそうにやっている役者さんを見るのは(あまり下品でなければ)、見ている方もうれしくなる。

二條城の清正は、残念ながら私の日本史の知識不足で前半はイマイチ楽しめず。本来は、二条城への出立や会見は、「実際はこんな風だったのだろうか!」とわくわくしながら見て二重に楽しめるところなのだと思うが、いかんせん、知識が不足しているので、ふーん、という程度の感慨しかもてず、なさけなかった。後半、御座船の場面では、さすがに吉右衛門丈と福助丈の芸の力で感動させてもらった。ああ、日本史も勉強しなくては。