國學院大學 シネマ歌舞伎

  • 野田版 鼠小僧(のだばん ねずみこぞう)
  • 坂東玉三郎−鷺娘−同時上映 日高川入相花王(さぎむすめ、ひだかがわ いりあいざくら)

http://www.kabuki-bito.jp/news/2007/08/post_192.html
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/nezumi/index.html
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/sagimusume/index.html

シネマ歌舞伎國學院のキャンパス開放日に上演されていたので行ってみた。初めて國學院を訪れてみたが、閑静な住宅街の中にあり、こじんまりとしていて学生生活を送るには恵まれた環境。

「野田版 鼠小僧」は、お金に執着心が強く「施しをしたら死んでしまう体質」と言い張る、棺桶屋の三太(勘三郎)が主人公。自分の兄が死んで遺産が入るかと思いきや、遺書により善人で通る與吉(橋之助)に相続させることとなる。三太はその遺産を手に入れようとして、そこから巻き起こる事件がストーリーを展開していく。
同じく野田秀樹が演出した「野田版 研辰の討たれ」の主人公辰次と共通するのは、周囲の登場人物から失笑だけでなく怒りまで買うようなセコイ小者で、かつ、トリックスターであること。このような人々は、法界坊といった例外を除き、あまり浄瑠璃や歌舞伎の中で主人公となることはなかった。セコイ小者は、仮名手本忠臣蔵でいえば斧九太夫、鷺坂伴内などだが、彼らは常に端役であり、物語の中心になることはない。そもそも、義理人情・忠義を描くことの多い浄瑠璃・歌舞伎では、チャリ場は必要でも物語そのものをそんな小者に引っ掻き回されては、大真面目な物語の滂沱の涙の結末がぶち壊しになるからだろう。歌舞伎にやたらと切腹やら首実検やらが多いのは、トリックスターのいないドラマの中で劇的な急展開を求めた結果なのかもしれない。
野田版鼠小僧の三太や研辰の討たれの辰次といった主人公たちは、義理人情・忠義の世界からはみ出した者達だけに、不問に付されている義理人情・忠義の愚かな一面をずばり指摘するトリックスターだ。そして、そのような主人公と共に笑うことが出来る観客というのは、義理人情や忠義を様々な価値観のひとつとして客観的に見ることのできる現代人ということになる。もともと現代人は浄瑠璃や歌舞伎を観るとき、義理人情と忠義に共感する一方で、その不合理さを感じている訳で、歌舞伎観劇の時に常に心の奥に残る不条理な感覚を取り出して、その塊を元に物語を創り出した野田秀樹はさすがだ。
興味深いのは、義理人情や忠義の世界につぶてを投げ入れる野田版歌舞伎のトリックスターたる主人公二人は両方とも最後に死んでしまうことだ。現代人としてはできれば死なないで欲しいが、一度舞台を観てみれば、これらの物語が歌舞伎として成立するには、彼らが死ななければならないことが直感できる。浄瑠璃・歌舞伎の世界では義理人情や忠義に反したものは死をもって償うことになっているからだ。浄瑠璃・歌舞伎という物語の器の強固な世界・基盤に驚かされてしまう。
そういう意味では、新作歌舞伎で、義理人情や忠義を扱うのは、危険を伴う行為かもしれない。義理人情・忠義は歌舞伎の世界では至上の価値観、カードゲームで言ったらジョーカー、水戸黄門で言ったら葵の御紋なのだから、これに反すれば忽ち主人公は死ぬ運命になるか、物語が崩壊するか、どちらかだ。しかし、このテーマを素通りすれば、歌舞伎らしさの少ないテーマの作品になるだろう。野田秀樹氏は、その中で、主人公に歌舞伎と対峙し討ち死にさせる選択肢をとったということになるのだろう。
こう考えると、NINAGAWA十二夜の、シェークスピアのような全く別の世界を持つ戯曲を歌舞伎の器に移し替えるというアイディアはかなり面白い。歌舞伎が今後、進化していくとすれば、物語のテーマ以外のあらゆる歌舞伎の決まり事を総括的に歌舞伎という「劇の一形式」ととらえて、現代人の感覚にも通じる価値観をもつテーマを歌舞伎という劇形式にマッチさせた作品を創ることに成功するかどうかが鍵となるのではないだろうか。

と、つまらないことを長々と書いたが、野田版鼠小僧はこの文章と正反対。スピーディで変化にとみ爆笑を誘いながら、ちょっとホロッとさせて、名残惜しく終わる、楽しい作品だ。
勘三郎丈は相変わらず奮闘だし、橋之助丈もいい味を出している(いつもの歌舞伎座本興行でもこんな橋之助丈が観たい)。清水大希くん時代の鶴松くんも、すごい。


代わって、「日高川入相花王」は、玉三郎丈の人形振りが面白い踊り。
安珍清姫伝説(詳細はこちらを参照)の中で、道成寺に向かった安珍を追う清姫日高川の渡しに行き当たり、渡り守に川を渡らせてくれるよう懇願するが、安珍を守る渡し守は、清姫の願いを聞き入れず、最後は清姫は蛇となり…というような話。
玉三郎丈の人形振りは人形よりきれいで、かつ、人形らしいのなのだから、なんだか不思議な感じ。美しい菊之助丈が後見で、その美しさ故、時々どちらを見たらいいか、迷ってしまう。菊之助丈の後見は玉三郎丈以外では、返って後見の方が目立ってしまいそう。それと、普段あまり長く踊る様子をお見かけする機会の少ない薪車丈の渡し守の人形振りが良かった。


「鷺娘」は、2005年5月の歌舞伎座の舞台の映像化。先日9月27日の舞踊公演で観たばかりだけど、そのときと少し振りが違うので軽く驚いた。このように踊りこんでいる演目なら寸分違わず踊ることも出来るはずなのに、少しずつ進化させている玉三郎丈はやはりすごすぎる。