東京国立博物館 平常展

またもや凝りもせず、東博へ。

法隆寺宝物殿>

・2階 木・漆工、金工、絵画・書跡・染織

水瓶」(飛鳥〜奈良時代・7〜8世紀):一連の水瓶のフォルムの美しさにうっとりする。Elleか何かのインテリアのページから出てきたような、上質でモダンな瓶。昔と今では美の捉え方が違うものがある一方で、こんな風に奈良時代も今も全く変わらない美の基準もあるのだ。

聖徳太子絵伝」(秦致貞筆、国宝、平安時代・延久元年(1069)):へー、聖徳太子の時代も既に平安時代のような装束を着ていたんだー、と一瞬思ったが、考えてみれば、平安時代に書かれた絵なので、大和絵の手法で平安時代の風俗で描かれているのであった。損傷が激しくて、何が描かれているのか判別しにくかったので、絵の脇に置かれていた場面説明のプリントと見比べていった。絵は、よく見る襖絵や屏風絵のように右から左に年代順にならんではおらず、5幅の絵に、太子が厩の前で生まれた時から死後の出来事までが散りばめられている。
描かれているエピソードは、「3歳 桃の花よりも青松を賞賛する」というような渋好みのお子様であったという、たわいの無いことから、「33歳 十七条憲法を制定する」、「36歳 小野妹子を隋の衝山(こうざん、中国の地名)に派遣する」、「36歳 法隆寺を建立する」、「35歳 勝鬘経(しょうまんぎょう)を講じる」などといった、主だった太子の功績、はたまた、「11歳 空中を飛行するなど特殊な能力を示す」、「37歳 青龍車(とは何ぞ?)に乗って衝山まで飛行する」といった、聖人化された現実味の無いエピソードまで、実に58の逸話に及ぶ。
がんばって判別していったが、どれもはっきりとは確認できず、消化不良な気分でその部屋を去ろうとしたが、ふと出口付近で振り返った時、その絵の全体像が目に入った。そして、その絵が総体として発する美しさに圧倒された。至近距離でみるより離れて見た方がずっとよく絵が判別できることも分かった。
58ものエピソードを散りばめてこれだけ美しい絵にまとめあげられたということは、この時代、聖徳太子が今よりもずっと大きな存在感を持って人々に受け入れられていた、信奉されていた、ということだろう。
聖徳太子絵伝」は、以下のe国宝のサイトでも見ることができる。
http://www.emuseum.jp/cgi/detail.cgi?yoID=1&ID=w039d&SubID=s000&Link=


<本館>
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・国宝室

観楓図屏風(かんぷうずびょうぶ)」(狩野秀頼筆、国宝、室町時代):狩野元信の次男であり狩野永徳のパパでもある秀頼の筆と言われているそう(孫の「秀頼」の筆という説もあるとのこと)。息子の永徳ばかりが有名で、あまり脚光を浴びないパパも、このように国宝の絵があってよかったと、他人事ながらうれしく思う(12/2追記)永徳のパパではなかったです。永徳のパパは松栄。(/追記)何より、描かれている人々の表情が、穏やかで楽しそうなのがいい。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A10470

・8室 書画の展開 ―安土桃山・江戸

鬼子母神十羅刹女」(長谷川等伯筆、室町時代・元亀2年(1571))、「同」(長谷川等伯筆、安土桃山時代・16世紀):等伯仏画を描いていた時代があるという。等伯出光美術館で何度か展示のテーマになっていて見た気がするが、きちんと生涯を把握していなかった。以下、等伯の概要があったので、自分のためにリンクをしておく。
http://www.noto.or.jp/nanao/cci/touhaku/index.html

書状」(本阿弥光悦筆、安土桃山〜江戸時代・16〜17世紀)、「如説修行鈔」「要文章断簡」(伝本阿弥光悦筆、江戸時代・17世紀):書状は殴り書きで、これだけ見ても上手いとは言いがたかったので、むむ?これが能書家の手によるもの?と思いきや、「如説修行鈔」などは、さすが、流麗な書だった。いくら書が上手くても、さすがに殴り書きしたら下手っぴいにみえるのだなあ。

・7室 屏風と襖絵 ―安土桃山・江戸

故事人物図屏風」(伝岩佐又兵衛筆、江戸時代・17世紀): 浄瑠璃「傾城反魂香」の吃又(どもまた)の又平のモデルとなったといわれる岩佐又兵衛の筆と伝えられる絵。かなりアクの強い印象の絵だ。又兵衛は、当初狩野派に学び、後に土佐派に移ったが土佐派を破門されたということだ。このようなアクの強い絵を描くからは、本人も相当、一癖も二癖もある人物だったのではないだろうか。近松は、そんな又兵衛を吃又の「又平」にする時、言いたいことが言えないハンディを与えて、逆に、より人々の心に訴えかけるキャラクターを創り上げた。そして、その又平に、土佐の名を名乗ることを許される、というハッピーエンドを用意したのだった。そういえば、傾城反魂香は狩野元信の250年忌を当て込んでつくられたというが、永徳の祖父の狩野元信が出てきたし、元信は土佐派とも通じていて、ある程度史実にも即しているのだ。さすが、近松

洛中洛外図屏風(舟木本)」(筆者不詳、安土桃山時代・17世紀):今回はこれを見に来たのだった。岩佐又兵衛が描いたという説もあるようだが、隣に飾られている又兵衛の「故事人物図屏風」の画風と比べてみると、似ているようでもあり、似ていないないようでもあり。その場では似ていない気がしたのだけれども、再度Webで確認すると似てる気もするなあ。この二つの絵が並べて展示されているのは、又兵衛の絵と比べてみたいという人の便宜を図ってくれているのかな。
誰が描いたかは分からないが、この秋は永徳ブームで洛中洛外図の解説を一杯見たので、もうちょっとした洛中洛外図博士です。絵を見て、何が何だかちゃんと分かります。
http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A11168

・10室 浮世絵と衣装 ―江戸 浮世絵

子日の遊び 俊成」(鈴木春信筆 江戸時代・18世紀):子の日遊びとは何ぞと思ったが、正月の子の日、とくに最初の子の日に、人々は野に出て、小松を根から引き抜いて健康と長寿を祈ったものらしい。実際、この絵でも小さな松の木とピクニックをする貴族が描かれている。正月にピクニックというのはちょっと寒そうな気がする。それが、今に受け継がれていない原因か?そういえば、2008年は一月一日が子の日のよう。
※子の日遊びについて
http://www.iz2.or.jp/rokushiki/index.html

今様見立士農工商・商人」( 歌川国貞(三代豊国)筆 江戸時代・安政4年(1857) ):役者絵や本が店先に山積みにされていて、それを売っている女性と買おうとしている女性を描いた絵。女性が売っているが、そのあたりが見立てなのだろうか。役者絵がどのように売られていたかが分かって面白い。

二代目市川高麗蔵の由良之助と初代中村松江のおかる」(一筆斎文調筆 江戸時代・明和8年(1771) ):いわずと知れた七段目の一力茶屋の一場面。今の忠臣蔵では、由良之助は紫の着付け、お軽は藤色の遊女の打ち掛け姿がお馴染みだけど、この由良之助とおかるは両方とも今の衣装とは違う(二人とも何かの文様がついた着付けだけど詳しくは分からず。。)。初演から30年弱しかたっていないこの頃は、まだ、あの衣装は確立していなかったのですね。

忠臣蔵焼香場」(歌川国貞(三代豊国)筆 江戸時代・19世紀 ):四段目の塩冶判官が切腹した直後に焼香する場面ではなくて、無事討ち入りを果たした後、判官の菩提寺にて焼香する場面の絵だ。四十七人(勘平は既に切腹しているので四十六人?)が焼香している場面ともなると面白くないこと確実なので上演が途絶えてしまったのだろうし、今後も上演されることはないだろうが、十一段目に当たるらしい。絵は墓地で赤穂浪士があのギザギザの衣装で焼香をしているところ、そのまんまです。


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・15室 民族資料  特集陳列「アイヌの祈り」

アットゥシ」(北海道アイヌ 19世紀 ):よく歌舞伎で船頭さんは厚司というガウンを着ているが(例えば、義経千本桜の渡海屋銀平実ハ平知盛など)、これのことなのだ。実際、北前船(きたまえぶね)という西回りに就航していた北国地方の廻船の船頭がよく着用していたという。と、書いていたら、ああ、仁左衛門丈の渡海屋銀平が観たくなった。かっこいいんだ、これが。
北前船とは:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%89%8D%E8%88%B9

・16室 歴史を伝えるシリーズ 特集陳列 日本を歩く−蝦夷・北海道編−

幸大夫日記」(大黒屋光太夫写、江戸時代・寛政3年(1791)):大黒屋光大夫は廻船問屋であったが、あるとき嵐に遭いロシアに漂着し、ロシア語を習得し、最終的にはペテルブルグまで行ってエカテリーナ2世に謁見したという。エカテリーナ2世に帰国を願い出たことが記されているらしい。ほぼロシア語で書かれているが、「寛政」などの日本語も書いてある。
何に書いてあったか失念したが、当時、武士が素養としてお能を習うように、商人は浄瑠璃を習っており、浄瑠璃の言葉が商人の共通語の土台となっていたという。そして、大黒屋光大夫は浄瑠璃を習っていたから、大振りのコミュニケーションでロシア人とも何とか意思疎通が出来たが、これがもしお能が素養の武士ならコミュニケーションが難しかったのではないか、というような話を読んだことがあったのを思い出した。