出光美術館 乾山の芸術と光琳

http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/schedule/200703.html

平成12年(2000年)に始まった法蔵寺鳴滝乾山窯跡発掘調査の結果を踏まえた今回の展覧会。大好きな乾山を、たくさん見れて大満足。
兄、光琳のセンス溢れる奔放かつ華やかな絵に比べて、弟、乾山の朴訥でヘタ可愛い絵は陰に隠れがち。だけど、どれもこれも、愛おしくて嫌いになるということがない。魯山人とか、富本憲吉とか、乾山の影響を受けた人は色々いるけれども、乾山のセンスと茶目っ気の同居という部分を受け継いだ人はあまりいないのではないか。


町衆の美意識

洛中洛外図屏風」(江戸、出光美術館)に乾山が最初に窯を開いた鳴滝の場所を確認することが出来、「雁金屋衣装図案帳「御画帳(小西家文書)」」(万治4年(1661年)大阪市立美術館)や着物の実物で、尾形兄弟の育った桃山時代の上臈向けトップブランド「雁金屋」の在りし日のデザインを知ることが出来る。尾形兄弟の父が亡くなった後、雁金屋は長兄が継いだようだけれども、その長兄はどんな人だったのだろう。父も絵を描くようであるし、弟二人はあの通りだし、長兄の彼もそれなりにデザインをする能力はあったはずと思うのだが。兄はこの弟達の活躍をどう思っていたのだろうか。また弟達は雁金屋の息子であり能をやったりもしていたのに、着物や衣装を作ったというような話は聞かない。時代的に長兄とその他の弟達を厳然と分ける風習があったのだろうか。


芸術家への道のり

書状 別紙覚書 尾形光琳宛(小西家文書)」(尾形乾山、元禄9年(1696年)、大阪市立美術館)は衝撃的だ。兄、光琳に、借金の返済を迫る書状で、今、質屋にあるものを全て売り払っていいですか云々という内容(according to 芸術新潮 07年12月号 P110)。おお、既にこの頃から質屋があるのかーと変なところで感心したが、ちょっと調べたところでは鎌倉時代からあるらしい。で、先日、東博にあった光琳の「借用文書」は同じく元禄9年、田中?三郎という人宛で、「刀の一腰」云々と書いてあった(読めませんでした。。)。刀を借金のかたにするくらいだから、余程、困っていたのだろう。この兄に比べて、借金整理を強く要請する弟は、しっかり者だ。乾山は27歳で隠棲する心積もりだったのに、ある意味、兄の破天荒でまともな生活すら維持できないような生き方が、弟をプロデューサーにし、表舞台に引っ張り出した部分もあったのではないか。そして、もし、仲の悪い兄弟であれば、疎遠になる危険性もあったと思うのだが、返って絆が強まったのだから、この兄弟はお互いに相手のことを深く理解し、リスペクトしていたに違いない。いい兄弟だ。


鳴滝時代 乾山焼の異国趣味

乾山といえば書と画を一体にした角皿や京焼をベースとしたモダンな形や色の向付や鉢というイメージだが、初期に、海外の陶磁器を含む様々な種類の陶磁器の写しを制作し研究しているのを知って非常に興味深かった。

その中では「色絵阿蘭陀写横筋文向付」(尾形乾山、江戸時代、高津古文化会館)が可愛かった。白地に黄・緑・青などの色の細い線が等間隔にランダムな順番で引いてあるだけなのだけれども、清潔感のあるポップな図柄。黄色の線が若干目立つところが、可愛いモノ好きの心をくすぐる。お店で売ってたら買いたいし、もし陶芸をやる機会があったらまねして作ってみたいくらい。今、書いてて気がついた。お湯飲みかと思っていたけど、向付なんだ。

色絵石垣文角皿」(尾形乾山 元禄12(1699)〜17(1704)年、京都国立博物館)中国明代後期に流行した氷裂文(白地に赤、黄、緑、紫のモザイクがランダムに配置されたような文様)を模したものとされている、60年代チックなモダンな柄(これを模したのではと思われる中国由来の皿「色絵羅漢氷裂文角皿」(中国 景徳鎮窯)も展示されている)。富本憲吉旧蔵ということだが、いかにも富本憲吉好みの柄だ。

陶工必用」(尾形乾山、元文2年(1737年) 大和文華館)乾山75歳の頃の筆。私が行った日は、「窯の火の勢いがどうなるのがよいのか」等について書いてある箇所が開いてあった。75歳というと、江戸の入谷に居を移した後の話のようだ。乾山にそのような著書を、と望む声は当然あっただろうし、江戸に居を移して、今まで夢中でやってきたこれまでの陶作を俯瞰してみたい気持ちもあったのかもしれない。


鳴滝時代 乾山焼における王朝の伝統美

定家詠十二ヶ月和歌花鳥図画帳」(狩野探幽、江戸、出光美術館)、「色絵定家詠十二ヶ月和歌花鳥図角皿」(尾形乾山、元禄15年(1702年)、MOA美術館)、「色絵定家詠十二ヶ月和歌花鳥図角皿」(尾形乾山、江戸時代)定家の十二ヶ月和歌を、探幽が描いた絵を、角皿に移したのが圧巻。最初は、かなり探幽の絵に忠実に、横長の紙面に描かれた絵を正方形の角皿に描き込むにあたり若干の構図の微調整がなされているだけだが、MOA美術館版、最後の絵と、どんどん単純化、意匠化されているのが興味深い。具象のポジション、大きさを変えたり、位置をネガのように反転させたりと、意匠化する試行錯誤の過程が垣間見れて興味深い。

色絵能絵皿」(尾形乾山、江戸、出光美術館)この展示会ではあまり触れられていないけれども、お能について素人ながら、勝手に推測すると、琳派にとっては、能は結構大きな意味を持つのではないかという気がする。謡曲の「嵯峨本 光悦謡本 上製本」(慶長頃、法制大学鴻山文庫)もあるし(光悦も能をやっていた)、尾形兄弟も能をずっと演じている。能の謡曲や衣装の文様の中には様々なイメージがちりばめられているし、能の持つ、物事の枝葉末節を取り除きエッセンスを抽象化・単純化しようとする志向性、ドラマティックなプレゼンテーション等々、琳派理解のヒントになるものがありそうな気がする。このお皿に戻ると、このお皿は、能の曲から着想を得て描かれた絵皿(角皿)のシリーズ。翁、難波、八嶋、杜若、道成寺花月、安宅、通小町、海人、祝言の図柄が夫々描かれている。


光琳と乾山 兄弟の合作

お兄さん、さすが絵がうまいです。弟が兄に絵を任そうとした気持ちも分かる。そういえば図録にはMOA美術館の国宝の紅白梅屏風絵が載っていたのだが、結局見かけなかった。どうなったのだろう。特別出品って書いてはあるのだけど、何時出品したんだろう。


二条丁子屋町時代

NHK新日曜美術館によれば、鳴滝から二条丁子屋町に移った時、主な顧客も上臈の人々から町人に移り、意匠も鳴滝時代の文人趣味から、二条丁子屋町時代には分かり易いデザインの斬新さに変遷していったという。乾山の代表的なイメージのひとつである、京焼の大胆なフォルム、デザインの向付、鉢などはこの時代のものが多い。紅葉、桔梗、菊(新日曜美術館で荒川氏は「光琳菊」と言っていた)、牡丹、椿、百合等、優雅なおなじみの文様のほかにも、土筆&蕨&菫&杉菜など、何気に可愛すぎるデザインたち。佐藤雅彦ディック・ブルーナ等々と共に可愛いモノ大好きオジサンの殿堂に列したいくらい。


入谷時代と晩年の乾山

絵が奔放なのが素敵。この時代は、兄は既にこの世におらず、陶工や絵師との共作も少なかった。二条丁子屋町時代の、どこかお茶目さが顔を出すデザインと比べ、孤高で達観した乾山が透けて見える気がする。27歳で隠棲しようとしたが、結局できなかった乾山。最終的に入谷で、隠棲したとはいえないかもしれないけど、そのような境地に達したのかもしれない。