国立能楽堂 定期公演「磁石」「梅枝」

狂言 磁石(じしゃく) 茂山千五郎大蔵流
能   梅枝(うめがえ)越天楽(えてんらく) 梅若六郎観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1110.html

磁石

清水の見附から都に旅に出た男(茂山あきら師)と、で出会ったすっぱ(詐欺師;茂山千五郎師)の奇妙なお話。


まず、男が清水からの旅路で、道すがらの名所について、ひとりごつ内容が興味深かった。三河なら八橋、尾張なら熱田神社を挙げて、それぞれ、下向の時に見物しようと言う。名古屋名物、海老ふりゃあや味噌カツが出て来ないのは当然として、尾張名古屋は城で持つと言われる名古屋城も、まだ無い。

男は大津につくと、盛大な市が立っているのでちょっと覗こうとする。そこで、すっぱが男に目をつけ、なんとか顔見知りであると見せかけ、自分の定宿に連れ込み、人身売買をしようとする。が、男の方が上手で、すっぱがせしめる筈だった人身売買の代金を、まんまと男がせしめてしまう。

後から気付いたずっぱは、怒って男を追いかける。男をみつけたずっぱは、刀で切り付けようとするが、男は、自分は唐土と日本の潮境にある磁石山(そんなものはのない)の精だと言い出す。気が狂ったか、と思ったら、自分は刀を飲み込みたいと言い出して、大声を出して切りつけようとする刀に自分から向かっていく始末(要するに、まんじゅう恐い作戦)。

そこですっぱが試しに刀を鞘にしまうと、今度は、男はあっさり死んでしまう。すっぱは殺してしまったことをひどく後悔して、謡のような呪文を唱えると、「磁石の精」は、あっさり生き還り…という内容。


すっぱより男の方がよっぽど抜け目無いヤツだ。古台本では、男は博打打となっているそうだ。おそらく、この男の役は、一見善良な市民に見せかけた方が、落差が面白いから博打打から単なる男になったのだろう。考えた人は、センスあるなあ。

また、この話は人身売買の話だが、人身売買というのが中世の世界では普通に狂言のテーマになってまうくらい、世の中の一部となっていたというのが興味深い。人身売買といい、磁石の精といい、今の人間の発想には無いものばかりで、それらが、この狂言の不思議な味を増している。煮豆がお味噌になってしまったように、この作品が成立した当時の作者の思いもしなかった味を醸し出しているに違いない。


でもって、今、この感想を書いていて気がついたのだが、シテはすっぱの方だったのだ。てっきり男の方かと思ってた。ということは、男がとんちを働かせて、おとぼけな詐欺師から上手く逃げる話ではなく、詐欺師が捕まえたカモの男は実は詐欺師の上を行く騙し上手、という話だったのか。…どっちにしろ、同じ話か。


梅枝 越天楽


富士という伶人(楽士)と浅間という伶人が宮廷の管楽の太鼓の役を巡り争い、ポジションを獲得した富士を浅間が殺してしまった。その富士の妻の夫への妄執を描いた作品。


当日、入り口で上演に際してのコメントが書かれた紙が配られ、そこには、通常、梅枝の上演(の[楽]の部分)には、太鼓が入らないが、今回は、太鼓入りで行うという旨が記載されていた。実際に演じられてみると納得。シテの夫は楽士だったわけで、その人を偲ぶのに太鼓を叩いて音を聞くという行為は、とても自然なことだと思う。通常、楽器は、それぞれ音が異なり(それは、奏者の奏法の個性だったり、奏者の楽器に対する好みなどから来るものだが)、その音がその人となりを表すようにさえ、認識されるからだ。妻であれば、当然、いつも夫の叩く太鼓の音を聞いていたであろうから、その夫がいなければ、太鼓を叩き、その音を聞くことで夫を偲びたいと思うのは、当然だ。

舞台上に鞨鼓と鞨鼓台まであるのに、普通は太鼓は使われていない、ということは、夫の不在を象徴する演出なのだろうか。その通常の梅枝、というのも観てみたい。

今回は、六郎師が、とても演劇的に演じていたこともあり、太鼓の音があって、よりシテの感情が生々しく出て、良かったように思う。今回の面は、曲見というお面で、そのリアルに傾く演じ方に相俟って、顔をゆがめて涙を流しているに見えた。


なお、タイトルの梅枝は、詞章の最後に、平安時代に流行した今様の歌詞の一部が出てきて、それが、梅枝という名であることから、来ているらしい。今様というのは、どういうメロディだったのだろう、とかねてより思っていたのだが、やはり、この時代の音楽というのは、今の音楽とは違い、お経等に近いものだったのだろう。


シテの後場の衣装は、鳥兜とクリーム色の長絹だったような?その長絹のような上着は、火炎太鼓や琴などの楽器尽くしの模様があった。また大口は深緑色。


ところで、唐突ですが、お能の面白さって何なのだろう?能面をつけると良く見えないし息も苦しいでトランス状態のようになる、というような話が白洲正子の本にあったと思う。能面を付けて無心に舞う人を見て、グレゴリオ聖歌のような地謡や単純な拍子を執拗に繰り返すお囃子聞いていると、観客も、別世界に行ってしまったような気分になる時がある。そこが歌舞伎とか文楽とかと全く違うところだ。