国立能楽堂 特別公演 岩船 靱猿 求塚

能   岩船(いわふね) 豊嶋三千春(金剛流

狂言 靱猿(うつぼざる) 野村万蔵野村萬和泉流

能   求塚(もとめづか) 山本順之(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1109.html

岩船

囃子方地謡、シテ&ワキの謡、全体的に、非常に男性的な、力強いパフォーマンスだった。西洋音楽で言えば、ずっとmf(メゾ・フォルテ)、f(フォルテ)、ff(フォルテッシモ)という調子。こういうのは、演出としてそうしているのだろうか?それとも、偶然、そういう人たちが集まったのだろうか。私は、岩船に関しては満足度が高かった。


全般的にお目出度い話。前場では、まず、その当時の御代が如何に平和で繁栄しているか、ということが語られる。天皇から、住吉の浦の市に行って、高麗唐土の宝を買ってきて下さい、という宣旨を受け、勅使が市にやってくる。次に男(シテツレ)が童子(シテ)と共に、銀盤に欄干の頭のような形の如意宝珠を据えたものを、恭しく掲げて橋掛かりからやってくる。男が静々とワキの勅使に手渡し、「これは君(天皇)に捧げ物にて候」という。如意宝珠とは何ぞ、と思ったら、Wikipediaに記載があった。神云々という話が出てくるので、神道に関連するものかと思ったら、仏教関係なのか。明治以降は一応、神仏を分けて考えるが、ちょっと昔に行けば、ごっちゃのようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

岩船とは、天空をも自由に駆け巡ることのできる岩で出来た船のことだそうだ。童子は、実は私は岩船を漕ぎ寄せた探女(さくめ)で、高麗唐土の宝を積んで持ってきたので、住吉の浦に寄せます、というと、嵐と共に消えてしまう。

狂言は、鱗(うろ)の精が出てくる。そういえば、12月に観た和布刈(めかり)でも(観劇録は書いてないけど…)、間狂言に鱗の精が出てきた。もっと言えば、このお能のストーリーは、乙女が出てくるところと、最後に竜神が出てくるというところ、海に関係する話、などの点が、和布刈に似ている。で、鱗の精というのは、耳慣れない。魚の精か何かだと思うが、その当時は「鱗の精」と言われれば、ああ成程と思うほどの一般常識だったのだろうか。面を付けており、賢徳のようだった。

後シテは龍神。白頭に大龍載(だいりゅうさい)を載せている。かなり大きく、尻尾を伸ばしたら、文楽や歌舞伎の金閣寺の龍より大きいかも。しかもバランスが悪いものなので(ウルトラマン・セブンの頭の飾り物を龍の絵に置き換えて巨大化させたものとお考え下さい)、頭に載せて舞うのは大変そう。舞働の後、おめでたそうな言葉を色々並べて、去っていく。


シテの衣装は、前場は「唐人風」ということだが、どのあたりが唐人風なのか、良く分からなかった。一番上に着用しているのは貫頭衣のような形で裾の下の方だけつながっているというもだ。むしろ、弥生時代?と思ったのだが、これが、異国風のお約束の装束だったということなのだろうか。後場では、白地に飛雲(とびくも)の舞衣に、青海波(せいかいは)文の大口に上に書いたとおり、大龍載を載せていた。

それと、この前から気になっていたのが、演者の座り方だ。先日買った「絵画史料で歴史を読む」という本の中で、中世の人々の座り方について書いてあるページがあったのだ。今は、畳に直接座るとしたら、正座や胡坐が一般的だが、中世は男女共に、リラックスする時は立膝で座るのが一般的、ということだった。確かに、お能でワキの演者がシテの話を聞いている時など、ずっと片膝を立てて座っている。受けの演技をしている人の座り方等は、余程不都合が無い限り、斬新な新演出がもたらされるべきところではないから、室町時代からずっと残っている所作に違いない。一方、江戸時代に成立した文楽や歌舞伎は正座している場面が多いように思う(文楽では、立膝を足遣いの人が表現するのは難しい、という物理的な側面もあるかもしれないが、正座が一般的だから、あのような足遣いの方法になったとも考えることも出来そうだ)。歌舞伎で立膝をするのは、御注進等で野外で座る時だろうか。


靱猿

シテの大名(野村万蔵師)が野遊山(のゆざん)の途中に猿引(野村萬師)を見かけ、毛並みがいいので、靱(うつぼ;矢を入れて背負う狩の道具)にしたい、と太郎冠者(小笠原匡師)を通じていう。猿引は、靱にするというのは、殺すということだから、言語道断だときっぱりと断る。しかし、大名が、弓で射ようとするので、猿引は、矢で射られるくらいなら、自分が猿の急所を一打ちにして殺すという。ところが、いざ一打ちしようと棒を叩くと、芸の稽古と思った子猿は、棒を持って稽古中の芸をする。それをみて感極まった猿引は、自分はこの子猿を殺せない、と泣き伏してしまう。大名は、一転して、もらい泣きをし、靱にはしない、と言う。そこで、お礼に子猿の芸を見せる。


シテは大名だけど、能楽堂全体の熱い視線を浴びているのは、当然のことながら、子方の可愛いこざる(野村眞之介くん)。2004年生まれ、というから、まだ3才。かわいい。狂言が進む間、彼はずっと、右足は膝を立て、左足は投げ出すという形で座っていて、腕やらおしりをポリポリ掻いては、しばらくすると掻いた手をぱっと横方向に伸ばし、それからそのすぼめた指先をお猿の面の口元に押し付けている(蚤を取って食べている仕草なのでしょう)。で、時々、思い出したように、でんぐり返しをする。その仕草のタイミングは狂言の間を計っているようでもあり、ぼーっとしているように見えて、自分の出番になれば直ぐに飛び出すところ、とても三歳児には思えない集中力だった。こうやって、祖父、父親に囲まれて舞台を踏むというのは、ほのぼのとして、いーなー(演じてらっしゃる方は、それどころではないと思うが)。


ぜんぜん、話の筋とは関係ないが、太郎冠者(小笠原匡師)の大名に対する返事の発音が面白かった。「はっ」と「へっ」の中間音で、発音記号だとちょうどhæみたいな感じの発音なのだ。


求塚

観阿弥(1333年〜1384年6月8日)作。

最初に、茶色の引廻幕が巻かれた、塚を示す作り物で、天辺に、こんもりと木の葉を乗せたものが運ばれてくる。その中にシテがいるのかと思いきや、橋がかりから里の女が4人、お揃いの衣装(妹背山婦女庭訓の三笠山御殿の段の官女のような装束)で籠を持って若菜摘みに出て来る。その娘達の一人がシテの菟名日処女(うないおとめ)(山本順之師)なのだった。旅僧(宝生閑師)が、求塚はどこにあるか尋ねると、娘達は、若菜摘みで忙しいので、と言い、帰ってしまう。ところが、菟名日処女は一人残り、求塚の由来を語り始める。昔、菟名日処女という娘がいたが、小竹田男子(ささだおのこ)と血沼(ちぬ)の丈夫(ますらお)という二人の男性から求婚され、困った菟名日処女は、先に鴛鴦(おしどり)を弓で射た方と結婚すると言うが、結局二人は同じ鳥を射て、決着が付かない。菟名日処女は、結局、生田川に身を投げ、求塚に葬られたが、二人の男は塚の前で刺し違えたという。菟名日処女は、旅僧に、助けてほしいというと、塚の中に入ってしまう。

この後、間狂言で、地元の人が詳しく事の次第を教えてくれる。その間、シテは人一人入るのがやっとの塚の中で装束を着替えるので大変。身動きできないので、ほとんど、後見の方がやっていた。

後場となると、菟名日処女が地獄の責め苦を表現する。最初に出てきた若菜摘みの里の女達は結局のところ、その清純な華やいだ印象で後場の凄惨さを際立たせるためだけに出てきたのかもしれない。「火宅の住かご覧ぜよ」とシテの代わりに地謡がうたうと、引廻幕が取り払われ、燃え盛る家(火宅)の大焦熱の中のシテが現れる。

ここからがすごくて、「鴛鴦(打ち落としてしまった鳥)の、鉄火となって黒鉄の、嘴足剣の如くなるが、わらはが髪に乗り憑り、頭をつつき髄を喰ふ」「行かんとすれば前には海、後は火焔」「せん方なくて火宅の柱に、縋りつき取りつけば、柱はすなわち火焔となって、火の柱を抱くぞとよ、あら熱しや、堪へがたや」「八大地獄の数々、苦しみ尽くし」等等と、恐ろしい光景。旅僧はもちろん、読経をするが、最後は、菟名日処女は消えてしまい、救われたのか、そうでないのか、はっきりとは分からない。歌舞伎や文楽なら、役者や太夫の表情から、救われたという心で演じているのか、そうでないのか、それとも結論は観客にゆだねようとしているのか、その表情からヒントを得ようとすることが可能だが、能の場合は面があるため、それは全く不可能だ。

そして沢山の疑問がわいて来た。なぜ、菟名日処女は、ここまで酷い思いをしなければならないのだろう?決然とした結論を出さず、逃げてしまったからだろうか?それもひとつだろう。だが、彼女の過失の小ささに比べたら、あまりに大きな償いではないだろうか。人は不幸は受け入れざるを得なくても、せめて因果と応報の帳尻は合っていて欲しいと願うものなのに(現実はそう上手くはいかないかもしれないが)、これは、バランスを欠いているように思えてならない。義経千本桜の知盛だって、そこまで酷い目には遭っていない。しかし、長いこと、演じられてきたということは、人の気持ちを惹きつける何かがあるのだろうか。また、この能を創ったという観阿弥という人は、何故、このような能を創ろうと思ったのだろうか(恐らくは、安易な救済を描きたくなかったのだろうが、何故、このようなモチーフを選んだのか、疑問は残る)、などなど。


悲劇の質というか表現方法が、能と文楽・歌舞伎とでは、違うと思った。文楽・歌舞伎は、よくよく考えればみもふたも無い悲惨な話でも、悲惨さは、感動・感涙に置き換えられる。恐らく、歴史的な、観客層の違いや興行形態の違いが、大きく作用しているに違いない。


なお、シテが持っていた扇は、波濤と入り日の負修羅(まけしゅら)扇と幽霊扇(白地に焦茶色のおどろおどろしい雲が描かれたもの、多分地獄の火焔を表している)だった気がする。もう、これでもか状態。