国立能楽堂 定例公演 棒縛 安達原

狂言 棒縛(ぼうしばり) 佐藤融(和泉流
能  安達原(あだちがはら) 黒頭・急進之出(くろがしら・きゅうしんので) 長山禮三郎(観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1781.html

棒縛

留守中、いつもお酒を盗み飲みする太郎冠者(佐藤融師)と次郎冠者(井上靖浩師)を苦々しく思っている主人(佐藤友彦師)。一計を案じて太郎冠者の両手を後ろに当てた棒に括り付け、次郎冠者を後ろでに縛り、お酒を飲めないようにして外出する。太郎冠者と次郎冠者は最初はお互いのせい、と喧嘩をするが、そのうち、二人で協力して上手くお酒を飲むことに成功し。。。というお話。

どうも、主人のお酒を如何に盗み飲みするか、というのは狂言の主要テーマのひとつのようだ。歌舞伎では、松羽目物以外には、お酒を飲むシーンはあっても酔っぱらうシーンはそんなにないのは面白い。せいぜい、明治に入ってからの歌舞伎、「魚屋宗五郎」(黙阿弥)ぐらい?七段目の由良之助は、酔っ払ったふりだし。

文楽のチャリ場などでそんなシーンがあってもよさそうだけど、今のところ私の乏しい観劇歴では見た記憶がない。さすが町民の娯楽だけあって文楽に見る主従関係の規範の方が狂言にみる主従関係より厳しい気がする。狂言の主従関係は、大らかで、お互いに承知し合っている部分があるようだ。あの太郎冠者と次郎冠者は、次回、主人が外出する時も必ずや盗み飲みするに違いない!


ところで、狂言を見ているとよくお酒を飲むシーンで、タンと舌を打つのをみるのだが、今回は舌を打たなかった。流派で演じ方がに違いがあるのだろうか?


安達原


非常に面白かった!なるほど、これは歌舞伎向きだ。猿之助丈の黒塚のDVDが観たくなった。


前シテ(長山禮三郎師)は、案内本によっては深井+壺折姿の写真が載っていたりして、まだ中年の女性という設定にする場合もあるようだが、今回は、痩女の面に鼠色の着物に縒水衣を羽織った姿のお婆さん。萩屋から幕が取り払われてシテが立つとき、よろけそうになったりするし、動きも緩慢、シテが動く時や謡う時は、お囃子や地謡まで心持ちゆっくりとなり、どこからどう見ても老女だ。というより、私は最初、大変失礼なことに長山師自身がよぼよぼなのかと思ってた。


ワキの東光坊 阿闍梨、祐慶(工藤和哉師)は、旅の途中で今宵の宿を探しているが、無事、この老女に宿を貸してもらえることになり、家に入る。


家に入った祐慶は、老女の家にある枠枷輪(わくかせわ;糸紡ぎの輪)を見つけ、是非、実演してほしいという。老女は初めは賤しい身の営みだから(うーむ、イトという言葉が縁語になってるのか)、と躊躇する。しかし、祐慶が、はかないことを言う人ですね、「まづ生身(しょうじん)を助けてこそ、仏心を願ふ便りもあれ、(地謡)かかる憂き世にながらへて、明け暮れ暇なき身なりとも、心だに誠の道に叶ひなば、祈らずとても終(つい)になど、仏果の縁とならざらん」と励ましたので(いい話だ)、老女は糸繰りを見せる気になり、よろよろと枠枷輪の前に行く。


老女は糸尽くしの歌を謡いながら、たどたどしく糸を繰り始めるのだが、どうもマイナス思考の人で、そのうち「今はた賤が繰る糸の、長き命のつれなさを、思ひ明石の浦千鳥、音をのみひとり鳴き明かす」と謡うと、力任せに糸車を回して糸繰りを止めてしまい、声を上げて泣き出すのだ。おー、怖!


そして、突然、「寒くなったので山に薪を取ってくる」と言い出し、ただし、「この閨の内ばし御覧じ候ふな」と何度も念を押して、橋掛りをよたよたとゆっくり歩いて行く…のだが、二の松あたりで心を残した様子で一度振り返ると、ゆっくりとお幕の方に向き直り、一呼吸の間があってから、急に物凄い勢いで去っていくのである!あの、さっきまでのよたよた歩きは何だったのだ!!怖すぎ!


あの勢いで走り去っていくところを見ると、もう、この時すでに鬼の本性を表しているのだろうか、と思えてくる。なぜなら、あのよたよた歩きは演技だった、ということだから。しかし、ただ単に、「夜だし寒いし旅僧達は家で待ってるし、ここはひとつ鬼になって早いとこ薪をとってきましょうか」…というコトだったのかもしれない、とも思える。急に薪を取りに行くと言い出したのも、泣いてしまった気恥かしさからかもしれないし、橋掛りで振り返った時の様子が、旅僧たちのことを心配している様な、何か、心を動かされた様子にも見えたから。


で、中入りのアイの能力(井上菊次郎師)がとってもお茶目で可愛かった。この能力は、天の邪鬼らしく、人から禁止されるとそれがしたくなるらしい。何としても閨の中が見たくなるが、祐慶からは強く止められる。それで、いったんは寝入った振りをしてから、何度も閨を見ようとしては失敗する。この時の、寝たふりの所作やさりげなく閨を見に行こうとする時の所作が、狂言方らしく滑稽味があって楽しい。見所から笑い声が漏れるほど。でも、その滑稽味が返って後場の恐ろしさを強調するのだ。


能力は最後には、閨の中を見ることに成功するが、その閨の中には、何と天井に届くほどの死体が積まれていたのである。


能力はあわてて祐慶に報告し、先に逃げて行く。祐慶とツレの僧も、急いで宿を出るが、そこに、鬼となった後シテが、ものすごい勢いで「見たな〜」とばかりに追いかけてくる。その際、歌舞伎の鏡獅子のように、いったん、お幕に入り、また勢いよく突進してくる。これが小書の「急進之出」ということらしい。般若の面に黒頭、紅入の厚板で打ち杖を持っている。が、背には芝を担いでいるのである。やはり、本当に旅僧たちに温かく過ごしてもらいたいという心尽くしで薪を取りに行っていたのかもしれない。


とにかく、ここは、戦いの場面となり、シテは打ち杖で戦い、ワキは祈りの型(数珠を揉んで読経する)をする。以前、歌舞伎の船弁慶で弁慶が数珠を揉んで知盛の霊を鎮めようとしたとき、知盛の霊の恐ろしさに比べて数珠を揉むだけで対抗するのは何だかしょぼい対戦方法だなあと思ったが、今回はさにあらじ、非常に迫力のある場面だった。


祐慶等の神通力に、さすがの鬼女は弱ってしまい、「恥ずかしのわが姿や」と言い残し、消えて行ってしまう。最後は怖さよりも哀しさを残す、老女の話だった。


詞章もなかなか興味深かった。


まず冒頭が、「旅の衣は篠懸(すずかけ)の、旅の衣は篠懸の、露けき袖やしをるらん」という詞章ではじまる。これは、お能なら安宅、歌舞伎なら勧進帳の冒頭でも使われる詞章だ。ちょうど源氏物語をぱらぱらめくっていたら、後撰集の歌で「すずか川 いせの海士のすて衣 しほなれたりと人や見るらん」という歌があった。この詞章は、後撰集の歌からの連想でもあるのかもしれない。


また、前シテが枠枷輪の前で糸繰りをして見せる時、次のような歌を謡うのだが、これも何か本歌や元となるテーマがありそうだ。

そたそもそも五条あたりにて、夕顔の宿を訪ねしは、
日蔭の糸の冠着(かむりき)し、それは名高き人やらん、


賀茂の御生(みあれ)に飾りしは、
糸毛の車とこそ聞け、


糸桜、色も盛りに咲く頃は、
来る人も多き春の暮れ、


穂に出づる秋の糸薄(いとすすき)、
月に夜をや待ちぬらん

最初の五条の話は、源氏物語の夕顔の話だろう。そして、次の賀茂の話は何だろう。糸桜のところは西行桜の話だろうか。最後の糸薄のところは何だろう。もっと色々分かれば面白いのに、と思う。


という訳で、お能自体面白かったばかりでなく、詞章も楽しみな宿題を残してくれて、大変満足した。実はその日は色々むかっ腹が立つことがあったのだが、安達原を見て、キレるのはくれぐれも止めておこうと思った夜でした。