渡海屋銀平の行く末

義経千本桜の二段目の前段は、「渡海屋」という題で、平知盛の仮の姿、渡海屋銀平の営む廻船問屋の名前からきている。実際、貨物や旅客等を海路で運搬する船を渡海船といい、そのような生業の者を渡海屋といったらしい。


一方、渡海という言葉には、もっと仏教的な意味合いもある。


極楽浄土といえば、西方・印度だが、印度の南方の海上にある補陀洛(ふだらく)山という観音様の降り立つ観音浄土があり、かつて、補陀洛渡海といって、動力のない小船で補陀洛を目指すという行(実質的な入水)が行われていた。その船のことを渡海船という。


補陀洛渡海というのは、中世、熊野灘足摺岬から多く行われたそうで、維盛も熊野巡礼の途中、補陀洛渡海で入水した。


渡海屋の話に戻ると、渡海屋という屋号や義経の味方かと思われた銀平が実は平知盛義経一行を海に沈めようとしている等といった話の流れから、渡海という言葉が不穏な響きを放つが、結果的に入水するのは、知盛の方であった。しかし、知盛の、そして平家の悲劇の運命の述懐を聞いた後には、観客は知盛の極楽往生を願わずにはいられないが、渡海屋という言葉が知盛の補陀洛渡海による極楽往生をも、暗示させているのかも知れない。


今、ふと思ったのだけど、渡海屋で銀平が装束を改め知盛として田村を舞う場面、田村は世阿弥が作ったといわれているので、時代がごっちゃになってますね。歌舞伎では、ここの謡は黒御簾が担当だけど、文楽ではどうなってるのかな。