国立能楽堂 普及公演  悪太郎 葵上

解説・能楽あんない  
御息所の矜恃と愛  馬場あき子

狂言 悪太郎(あくたろう) 大藏吉次郎(大蔵流

能  葵上(あおいのうえ) 梓之出・空之祈(あずさので・くうのいのり) 谷村一太郎観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1784.html

今日はいまいちな体調で、集中できず。まあ、そんな日もあるもんだ。


悪太郎

最初、悪太郎が出てきて、酒を飲んできたが飲み足りない、と愚痴るのだが、既に千鳥足。「飲み足りない言うて、既に千鳥足やんけ!!」とダウンタウン浜田風につっこみを入れたくなるが、そこは笑いどころではないようなので、黙って見守ることにする。


伯父の家に行き、禁酒をするよう諭されて、今日を限りに禁酒するということになる。そして、禁酒前の最後の酒盛りとなるのだが、この酒盛りの次第は、先日観た素襖落とまったく同じ。狂言は、「この展開、この前も観たな〜」と思うことが時々ある。別の演目の展開をそのまま使ってしまうところが、横着・素朴で面白い。


よっぱらった悪太郎は、道端で寝込んでしまい、目が覚めると(伯父が一計を案じて仕込みをしたおかげで)、僧の出で立ちとなっていて、自分は南無阿弥陀仏という名前だと思いこんでしまう。そして、出家が鉦を鳴らしながらお経を唱えていると、「南無阿弥陀仏」という度に「やあ」と答える。出家は面白がって、早口で唱えたり、踊りながら唱えたりといい加減なもんだが、悪太郎も反射神経でこれに応え、この応酬が笑える。


結局、悪太郎は出家と一緒に修行に出ることを決意する(確か。。)。最初の出の場面ではくたびれきった中年オヤジの悪太郎だったのに、最後はまるで子供に帰ったような純真さになってしまった。狂言の素朴な面白さが全面に出た曲だった。


葵上 梓之出・空之祈


のっけから、本筋とは関係ない話で恐縮だが、小鼓が面白かった。照る日の巫女や横川の小聖が祈る時は、小鼓が刻むのだけど、それが、ソ、#ファ、ソ、#ファ、、、という感じで、交互に半音近く音程が上下するのだ。どうして同じ小鼓を使っていながら、音程が変わるのだろうと興味津津。普通に考えれば、太鼓系の楽器の音を変える方法としては、皮の張り方をきつくするか緩めるかというのがあるけれども、亀井俊一師はそんな調節をしているようにも見えず。。。小鼓の片側をきつめに張って、もう片側をゆるめに張って、右左右左と打ってる?などと色々考えて、すっかりお能そっちのけになってしまった。


前場の終わり、おシテが橋掛りを去っていく時、何かを落としていったのだが、あれは演出だとしたら何を落としたのだろう?それとも、ただのアクシデント?


後場の最後の六条御息所と小聖が戦う(?)一番の盛り上がりのところで、ちょうど夕立ちが来て、雷がゴロゴロ鳴った。偶然のことながら、あまりのタイミングのよさにうなってしまった。菅原道真六条御息所の援軍に来たかと思っちゃいました(菅原道真公と六条御息所って気が合いそう)。