東京国立博物館 ワヤン公演「クレスノ使者に立つ」

特集陳列「ワヤン─インドネシアの影絵人形─」関連事業
ワヤン公演「クレスノ使者に立つ」

http://www.tnm.jp/jp/servlet/Con?pageId=C01&processId=00&event_id=5594

人形浄瑠璃は「あやつり」というものが基になっており、その「あやつり」を生業としていた傀儡子は、海の向こうから渡来した漂白の人々、という話をどこかで読んだ。その時、他の国での人形劇はどうなっているのだろうと思ったが、調べもせず、そのままになっていた。


今回観たのは、「ワヤン」というインドネシアの影絵人形だ。夕日のような白熱灯に照らされた白い布の向こうにぼうっと浮かび上がる影 ― 古代エジプトヒエログリフのような、レリーフの彫刻のような、繊細な造形をした人形が動く影絵 ― を見たことがあったら、それが「ワヤン」だ。
日本はその文化の基礎を中国やインドに負っているいるだけでなく、南方の海洋民族からも影響を受けているので、きっと「ワヤン」と「人形浄瑠璃」の間にも、何か、共通点を見つけられるに違いない!という、大した根拠もない勘に突き動かされて、観に行ってみた。


その成果は如何に、というと、私にとっては、なかなか示唆的であった。偶然の類似しているだけな点もいくつもあるのだろうが、きちんと調べてみれば、きっと面白いに違いない。


日本ワヤン協会のホームページによれば、ワヤンというのは、そもそも十一世紀頃は絵巻物を少しずつ繰りながら語る語り物(ワヤン・ベベル)であったらしい。それが、十五世紀ごろ、手の動く人形を使った影絵芝居(ワヤン・クリ)となったのだそうだ。ワヤン・クリには人形遣いである「ダラン」という人がいる。この人形遣いは、一人で何体もの人形を遣うだけでなく、文楽でいう太夫の役割も果たす。この点は、文楽と違うところだ。三味線に当たるのは、鉄琴とマンドリンを足して二で割ったようなガムランという楽器で、さすがにこの弾き手は別である。


ワヤン・クリは宮廷でも上演されるが、村のお祭りや誕生日、結婚式でも上演されるとのことだ。一人で上演するので、舞台も簡素だし、人形も、動いていない時は胴串にあたる棒をスクリーンの直下にある長細い枕のようなものに、針山よろしく、ぐさっと刺して固定しておいたり。このカジュアルさが、文楽との違いを生み出している。


それでは、共通点は何だろうか。なんといっても、太夫とダランの語りだろう。当日はジャワ語の語りに日本語の語りが被せてあったので、ジャワ語の方は聞き取りにくかったのだが、それでも、いきいきとしたその語りに惹き込まれた。緊張する場面での若い主人公の悲痛な叫びや、長老の大人物を連想させる威風堂々とした話しぶり、王族の母親の威厳がありながら母性的な説得。そして、場面と場面を繋ぐ複雑な節回しの歌。日本の伝統芸能の中では、義太夫節こそが、ダランの芸と共通するものを持つ芸能のように思えた。


演目の形式にも共通するものを感じる。たとえば、ひとつの外題の上演に6〜8時間かかるとか、平家物語や戦国時代さながらの複雑な人間関係を持つ、大人向けの物語であることも、共通している。


遠いジャワ島で、義太夫節と似たような芸能が、結婚式や誕生日に演じられているなんて、うれしくなってしまう。芸能は、廃れてしまえば後世の人は知ることができない。人形を博物館に入れることはできても、人形遣いが人形を動かすことで生まれる何か、語り手の語りや三味線などの楽器の描く情景が醸し出す何かは、映像にも残らない。これからも、どことなく共通点を持つアジアの芸能がそれぞれの地域でいつまでも生き残ってくれるよう、願いたい。