横浜能楽堂 源氏物語千年紀 横浜能楽堂企画公演 「源氏物語〜それぞれの恋心」第1回「夕顔−儚い恋の花」

案内人 馬場あき子
謡曲朗読 加賀美幸子
立花 山縣弘俊(華道高野山 華務長)
能「半蔀 立花」(金春流
 シテ(里女、夕顔ノ上ノ霊)本田光洋 ワキ(紫野ノ住僧)福王茂十郎
 アイ(所ノ者)山本則直
 笛:一噌仙幸 小鼓:古賀裕己 大鼓:佃良勝 後見:桜間金記、横山紳一
 地謡:高橋汎、金春安明、吉場廣明、高橋忍、辻井八郎、井上貴覚
 本田布由樹、中村一

http://www.yaf.or.jp/nohgaku/prog-2.html#genji


はじめて国立能楽堂以外の能楽堂に行ってみた。横浜能楽堂への道は、坂はあるし暑いしで、何が立秋だ、と思いつつ、バテながら歩いて行った。横浜能楽堂につくと、能楽堂の脇にある紅葉の木の葉のうち、気の早い葉が二、三枚、既に赤くなっていた。能楽堂のなかに入ってみたところ、ずいぶんと古く、いい雰囲気の能舞台。関東では一番古いとか。そして、広々とした舞台。というよりは、いつも見ている国立能楽堂が狭いらしい。国立能楽堂能舞台は設計ミスで、柱の内側の寸法で作ってしまったのでは、というようなことがどこかに書いてあったのを読んだことがあったが、納得だ。


解説 馬場あき子


私の大好きな「永遠の女学生」馬場あき子さんの解説。一番面白かったのは、夕顔の歌についての話。

源氏が六条御息所のところの帰り道、病気の乳母を見舞おうとして五条の辺りで車を止めていた時(忙しい人だ)、小さな家に白い夕顔が咲いているのを珍しく思い、惟光に手折ってくるよう言う。すると、その家から女の子が出てきて、薫物の香りのしみついた白い扇に白い夕顔を一輪載せたものを惟光に渡す。源氏が後で扇を見ると、「心あてにそれかとぞ見る白つゆの ひかりそへたる夕顔の花」という歌が書きつけてあるのであった。

ここで、なぜ、「心あてに」、つまり、「当て推量で光君かと思って見ていました」というのかというと、源氏が車に乗ってきたからなのだという。というのも、頭中将と子まで成した仲である夕顔は、車に乗っている人であれば中将であるはずだと知っており、そこから、その当時、中将であった光源氏だと推し量ったのだという。なるほど、そういうことであったのか。(今頃気がついたのだが、夕顔だけに、明け方、死んでしまうのだ。千年前に既にモチーフとプロットを上手くリンクさせた物語を作っているなんて、すごい。)


謡曲朗読 加賀美幸子


謡曲をアナウンサーの人が読むと変な感じがしないんだろうか、と思ったが、全くの杞憂だった。むしろ、謡曲は黙読なんて邪道で、音読こそ正しい読み方なんだ、と感じ入ってしまった。そもそも、詞章は和歌から多くとられているので、字面の美しさもさることながら、音の美しさ、喚起するイメージの豊かさに酔いました。いや、真面目に、家に帰ったら小声で読んでみようと思ったくらいだ。もっとも、私がやったって、加賀美さんみたいに表情豊かに読めるはずはないけど。加賀美さんは、黙って切戸口から現れ、目礼し、蔓桶に座って朗読し、朗読を終えると、朗読以外は一言も発せず、目礼して切戸口に去って行った。無駄のないプロフェッショナルな態度で、男前(?)。ファンになってしまいました。


立花 山縣弘俊師


立花の小書がつくと、舞台上で生花をするのだという。それで今回は高野山の山縣弘俊師が、生花を行った。初めて生花をするところを最初から最後まで見た(正確にいえば、最後の一輪の白い花(夕顔?)はお能の中でワキの僧が差すのだけど)。その所作の丁寧さにおいて茶道に通じるところが多々あるし、また、仏道に通じるということも、感じることができた。生花をしている姿を見ることで清々しい気分になるというのは、面白い。使っていた草木は、松、緑の紅葉、ユリのように見える黄色い蕾、紫のりんどうの花。そして、一輪、夕顔を花器の載った台の脇に添えて退場された。色合い的に、秋らしくて素敵だなと思ったが、それだけでないことが半蔀の後場に分かるのだった。


能「半蔀 立花」(金春流)シテ 本田光洋


美しさと透明感が際立つ曲だった。


まず第一に、舞台の正先にある立花が瑞々しい。そして、シテの装束は、前シテが、紅と浅葱の段替り(「唐織 扇地扇夕顔文様 段替り」)だったので、紅入りでも涼しげだ。

ところで、お能の鑑賞後に、展示コーナーにあった前シテの唐織を見てみた。すると、舞台では意識に上らなかったが、段替りの格子の中に「扇に夕顔」の文様が施してあることが分かった。何と注意力が足らなかったのだろうと思ったのだが、山口能装束研究所所長の山口憲さんの解説によれば、これは敢えて装束として着けて舞台に上がった時は目立たないようになっているとか。というのも、江戸時代の武士の美意識として、そのまま直接的な文様を使用することを嫌ったから、というような話だった。なんという細心の心配り。この装束は、毛利氏のもので、毛利氏の装束の中でも特に優品であるらしい。

ちなみに、今は、各流派で、この曲の時はこの装束と決まっているが、山口さんによれば、江戸時代は決まっていなかったという。能楽師は、貴族と教養の面でも対峙しようとする教養高い武士達を相手に、装束の選び方ひとつで自身の教養の程度を見透かされるという緊張感をもって、装束の選定に臨んでいたのだという。


話は半蔀に戻るが、シテの面は、普通は小面なのだそうだが、今回は本田師は増女を使った。それで、顔立ちも愛くるしいというよりは、翳のある大人っぽい涼しい表情になった。


後場では、「半蔀」の作り物が出てきた。これには、蔦と夕顔の花、瓢箪(夕顔の実)が、巻き付けてある。半蔀の斜めの格子に夕顔の蔦が絡まっている様子はなかなか風雅であるし、半蔀を上げると、いくつもの小さな瓢箪がぶら下がって、風鈴が風になびいている様で涼しげだ。


後シテは、白の長絹に浅葱の胸紐、紫の大口袴という出で立ち(大口袴は本来、緋色なのだそう)。このままでもなかなか素敵なのだが、よくよく見ると、先に立てられた花と後シテの装束、半蔀の色合いが、緑、紫、白で統一されていたので、あっと驚いた。これが、古い能楽堂のくすんだ木目とよく調和して、完璧と言っていいくらいだったのだ。舞台全体が、本当に、本当に、美しかった。


詞章の方は、源氏に別院に行きましょうと誘われた夕顔が、「山の端の心も知らで行く月は 上の空にてかげや絶えなん」と詠むところまでで、突然死んでしまう衝撃的な夕顔の最期と源氏の悔恨は扱わない。最後は「告げ渡る東雲 あさまにもなりぬべし。明けぬ先にと夕顔の宿明けぬ先にと夕顔のやどりの また半蔀の内に入りて其まゝ夢とぞ なりにける。」と、夜明けに星が朝焼けでかき消されていくような終わり方で、幻想的。


夏に相応しいお能で大満足。暑さでいらつきながら能楽堂に入ったのに、夢を見るような気分で能楽堂を出た。