乾山の陶器とお能に関する一妄想

先日、東博お能三井寺の装束を見ていたら、「白地露芝模様」という摺箔があった。それを見ていたら、乾山の「銹絵染付金彩薄文蓋物」という陶器の器を思い出した。

「銹絵染付金彩薄文蓋物」が恋しくなったが今は身近な美術館では展示してないので、しかたなくうちに帰って「銹絵染付金彩薄文蓋物」の掲載されている図録を眺めた。その器は約20cm四方の、まあるく角のとれた正方形の蓋付の器で、蓋は志野のような地に、黒と白(白を使うのがいかにも乾山らしい!)の自由で大胆な筆致で生い茂る草が描かれており、さらにその葉には、金彩の露が置かれている。そして、その蓋を開けると、器の内側には染付で菱十字文が描かれている。


それをみて、ふと気がついたのは、この器の内側の菱十字文は、光悦謡本の「大原御幸」の文様と同じ文様ではないか、ということだ。図録の解説を見てみると、確かに二つの文様の関連性が指摘されている。


それで、はたと思い付いた。つまり、こういうことだ。


謡曲の「大原御幸」は、その名のとおり、「平家物語」の大原御幸の段から取られていている。壇ノ浦で入水しようとして果たせず出家し、寂光院に身を寄せていた建礼門院を、後白河法皇が訪れるという話だ。


後白河法皇は、「分けゆく露もふかみ草」と謡われる山道を踏み分け、「露むすぶ庭の夏草しげりあふ」寂光院に辿り着く。この光景は、「銹絵染付金彩薄文蓋物」の蓋の文様で表された光景を彷彿とさせるものがある。


とすると、あの蓋物は、謡曲の「大原御幸」を陶器で表現したものといえなくもない気がしてくる。まず、山道を踏み分けて行く風景を薄文様の蓋が表し、その蓋を開けると、奥には謡曲の「大原御幸」の世界が広がっているのだ。

実は、この器に似た器は外にもあって、例えば、「銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」がそうだ。この器は、蓋には同じく光悦謡本の「善知鳥」の文様である松の木が数本黒、白、茶、灰等の色でそれぞれが重なりあいながら描かれている。生地は土色でざらざらしており、まるで砂浜のようだ。そして内側には一面に白波が描かれている。


この器はよく、蓋の一部を下の器に掛けるようにして置かれて写真かに収まっている。そのようにすると、まるで近景の松原と遠景の海原をみているようだ。


この風景も、もちろんお能の「善知鳥」に通じるものだ。漁師であるシテは、後場では、海辺で何かに憑かれたように善知鳥の雛の殺生を行なう。その時の「末の松山風荒れて、袖に波こす沖の石」という風景が描かれているのかも知れない。そうだとすれば、この器から感じる波の音以外何も聞こえない静寂は、実は後シテの殺生せざるを得なかった人生の壮絶な苦悩を内包しているのだ。


…などと考えていると、これらの器が自身の秘密を解き明かしてくれる気がして、私はますます妄想をふくらましたくなってしまうのだった。