高津宮

そういえば、この夏、大阪に行った時、文楽劇場の近くにある高津宮に行ってみたのだった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%B4%A5%E5%AE%AE


夏祭浪花鑑の長屋裏の段は、高津宵宮の夜のお話でした。それで何となく、名前に惹かれて行っては見たのだが、昼間だったので、とにかく暑かった。谷町九町目という駅(ジモティは「たにきゅー」というらしい)から歩いて5分もかからない距離なのだが、参道の入り口まで全く日陰無し!で暑さに弱い私は、これ以上遠かったら帰ろうかと思ったくらい。歩きながら、そういえば、大阪は、夜も蒸し暑いままだということを思い出した。もし私が、風の無いうだるような蒸し暑い夜、義平次にあんなに暑苦しい嫌がらせを受けたら、団七のように殺しはしなくても、回し蹴りの一つぐらいは、かましてしまったかもしれない(幸い、未だ人に回し蹴りをくらわしたことはないけど)。団七は、義平次と暑さの二つにやられたのだ。

で、その高津宮について、調べてみたらなかなか面白かった。


まず、その主祭神は、仁徳天皇だ。その他、仁徳天皇の父、妻、息子等も祭神として共に祀られている。三世代世帯ですな。

仁徳天皇と言えば、高殿に登って民の家から炊煙がまばらにしか立っていないのを見て、三年間、徴税を止めた、という逸話が有名だ。しかし、他にも色々と逸話があって、例えば、天皇の位につくにあたり、弟にあたる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)とお互い皇位を譲り合って、仁徳天皇皇位につく前の三年間、天皇が不在だった時期があったりするのだ。これは菟道稚郎子が父の寵愛を受けて皇太子に立ったものの、兄、大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に遠慮したためだという。そして、最後は、菟道稚郎子が「自分は兄の志を変えられないことを知った。長生きして天下を煩わすのは忍びない」と言って自殺してしまうのだ。

大鷦鷯尊は悲しみ慟哭されること甚だしかったという。

そのような経緯があって、大鷦鷯尊は天皇に即位し、難波に高津宮を置いた。何故、大阪?と思うが、その当時は、大阪湾が日本の玄関口に当たっていたようだ。例えば、記紀にも新羅百済からの使者が難波津に来航した、という話がある。そういえば、前にお能で「岩船」というやつを見たけど、あれも、津守の浦(住吉大社のあたり)に天皇の勅命で高麗唐土の宝を買いに行ったところ、高麗唐土から来た岩船から人が下りてきて、如意宝珠を天皇に献上する、という話だった。岩船は室町時代の作だろうけど、いにしえの難波の街のにぎわいが何らかの形で伝わっていたものを描写したのかもしれない。

他にも、仁徳天皇の逸話として浮気者というのがあって、やきもち焼きの皇后、磐之媛命(いわのひめのみこと)との夫婦喧嘩の逸話が面白い。ある日、磐之媛命が熊野岬に御綱柏(みつなかしわ)を舟で取りに行ったすきに、仁徳天皇は八田皇女を宮中に入れた。難波津にまで戻ってきた磐之媛命は、そのことを知ると激怒して、とってきた御綱柏を全て海に投げ捨ててしまった。それで、そのまま舟で淀川を上って行って、筒城宮(今の京都市京田辺市のあたり)に籠り、仁徳天皇が再三迎えに来ても、二度と戻ってこなかったという。何とも豪快な夫婦喧嘩だけど、磐之媛命は仁徳天皇の息子達に異母兄弟ができて、また皇位を争って人が亡くなるような事態を恐れたというのもあるに違いない。


話が飛んでしまったが、そのような仁徳天皇が作った高津宮を偲んで、清和天皇仁徳天皇を祀ったのが、今の高津宮の始まりなのだ。


この清和天皇は、清和源氏の始祖となる人で、后は、二条后、高子。あの、在原業平と恋愛関係にあった女性だ。在原業平は高子より17才も年上で、高子は清和天皇より8才も年上。清和天皇は、17才で高子を后としたが、高子は、後に清和天皇の摂政となる藤原良房の養子、基経の実妹でもあり、いわば、政略結婚だった。

また、清和天皇には、実は兄が三人もいて、長兄は、惟喬親王(これたかしんのう)という。惟喬皇子は、母が紀名虎の娘であるせいか、在原業平は非常に親しくしていた。人気のある皇子でもあったが、紀氏の後ろ盾では十分ではなかったようで、父の文徳天皇皇位につけるため奔走したにもかかわらず、結局皇位につくことは叶わず、858年に清和天皇が9才で即位する。

そのような状況で、貞観8年(866年)、16才の清和天皇が勅命により仁徳天皇の遺跡を探し、高津宮を祀ったというのは、清和天皇にとって、どのような意味があったのだろうか。仁徳天皇に理想の天皇像を求めて、という純粋な気持ちかもしれない。しかし、同じ年、清和天皇が信頼していた伴 善男(とものよしお)が応天門の変を起こし、それを解決した藤原良房に遠慮して彼を正式に摂政に任じる。結局、清和天皇には、仁徳天皇のように仁政を行う機会は訪れなかった。

そのようなことが、彼の心を蝕んだのだろうか、27才で突然出家して、無理な修行の末に崩御してしまう。


一方、応天門の変で活躍した、高子の兄で良房の養子である藤原基経は、清和天皇が9才の陽成天皇に譲位すると、良房の先例に倣って陽成天皇の摂政となった。さらには、奇行が目立った陽成天皇を退位させ、光孝天皇を即位させた。大鏡によれば、その時、あの「陸奥のしのぶ文字摺り誰故に」の源融左大臣で、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは(天皇に近いお血筋を求めるのなら、適格者として融がおりますよ)」などと言ったが、基経から即座に「姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある(姓名を賜って皇位についた例はありませんよ)」と却下されたとか。そして、基経は天皇より力を持つ貴族としての地位を固める。その基経の長男が、藤原時平。つまり、菅原道真を讒言して陥れた、あの男なのだ。


なんだか、話があちこちに飛んでしまい、全然、高津宮の見物記にならなかった。ただ、こう書いてみて気がついたのは、在原業平は825年生まれ、融大臣は822年生まれでほぼ同世代、菅原道真は845年生まれ。惟高皇子が844年生まれ。在原業平はこれらの人々全てと親交があったという。千年以上経ってみれば、権力の座につかなかった方の人々の方が多くの伝説で彩られているのは、面白いことだ。