融大臣は本当に御位につきたかったのか

昨日、「大鏡」の基経の頁、陽成天皇の譲位の善後策を検討する詮議のところを読んでいた時、どうしてもひっかかったことがあった。


光源氏のモデルになったくらいの風流を解する人、源融が、「位につかせ給はむ御心ふかくて(天皇の御位に就きたい心が深く)」、「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らも侍るは(なんで難しい議論をすることがあるのだろう。天皇に近いお血筋を求めるのなら、適格者として融がおりますよ)」と言ったというのだ。それで藤原基経は融大臣をたしなめたという。

当時は、任官されたとき、一度は断るのが礼儀作法だったという。そんな奥ゆかしい時代に、日本のお家芸、根回しもすることなしに、会議の場で自ら、そんなことを言い出すなんていうことがあるのだろうか。しかも、何か物欲しそうな、いかにも俗物おやぢっぽい、いやらしい言い方で ―― あの融大臣が!


と、腑に落ちかねていたのだが、ふと、思いついた。この「大鏡」は基本的に藤原道長を讃える書物だ。ということは、ここでは藤原基経が良い人にならなくてはならないのだ、と。


で、ここの文章の状況はどういう状況かというと、理由はともあれ、陽成天皇が譲位し、次の天皇をだれにするかという詮議が行われている。そこに、融大臣にとっては政治的にぶつかることの多かった基経が時康親王(後の光孝天皇)を担ぎだしてくる。融大臣は、姓名を賜ったとはいえ、皇族であった人間であり、基経のような部外者が勝手に天皇を決めようとするのに反感を感じるのは当然のことだろう。

そうだとすると、この融大臣の自薦は、基経に対する痛烈な皮肉である可能性もあるように思えてくる。ひょっとしたら、反基経派の喝采を浴びた言葉だったのかもしれない。もっといえば、基経は「姓賜はりて、ただ人にて仕へて、位につきたる例やある」と言いはしたものの、タジタジだったのかもしれない。

それなのに、歴史を藤原家に有利に変えるよう、後付けで基経に都合のよいように事実を改変して「大鏡」にエピソードとして採り入れたのだとしたら、、、そう思ったら、《世継の翁》(大鏡に出てくる語り部)が、今まで能面の翁の顔のような神々しい柔和な笑顔を想像していたのに、急に、記者会見で「それは工場長が勝手にやったことで…」とか言ってる喪黒福造のような顔に思えてきた。


とまあ、これは私の妄想です。正直なところ、融大臣は、私にとってはイマイチ謎なのだ。大体、京の都の六条院の大邸宅に塩釜作って毎日難波の海から塩水を運んでくるって、これ、本当に風流ですか?あの在原業平まで感心して歌作ったり自分の別荘に塩釜作っちゃったりしてるけど、イマイチ納得できん。他にも、「しのぶ文字摺り」ってどんなのか分らないけど、しのぶ草という草を摺っても多分、歌に詠み込みたいほど素晴らしい染物にはならない気がする。


ああ、1100年以上も昔の人のキモチは分りません!