築地本願寺 酒井抱一のお墓

そういえば、先日、築地本願寺に行ったのだった。


ひょんなことから、酒井抱一のお墓が築地本願寺にあるのを知って、現場検証に行ってきたのだ。


築地本願寺といえば、あの不思議な石造りの建物だ。古代インド様式とか。遠巻きにしか見たことが無かったけど、あの敷地に入って、向かって左の塀沿いに酒井抱一のお墓があった。


お墓は、何故かフキノトウのような形をしていて、近くに同じ形で二回り位小さいお墓も二つぐらいあった(たかだか二つ、三つを「ぐらい」ってしか思い出せない私って、頭大丈夫か?)。誰のお墓か確認しようと思ったけど、磨耗していて名前が読めず。小さいフキノトウは誰なのか、誰がお墓をデザインしたのか、そもそもフキノトウ的シルエットのあのオブジェは一体何なのか、色々ギモンが残りまする。


ところで、何故、築地本願寺に抱一のお墓があるのかというと、寛政九年(1797)、抱一が三十七歳の時、ここで出家したからだという。なるほど、早々に隠遁して、風雅の生活を送ったという訳だ。


抱一は、琳派の系譜につながる画家で、光琳に私淑していたが、光琳の弟、乾山に関する逸話もある。乾山の墓碑を上野寛永寺に立てたのは、抱一だというのだ。むむ?上野寛永寺といえば、かつては上野公園一帯が敷地だった、東博の正門横にある古い門は本坊の門だという、あの寛永寺ではないの。


そういえば、江戸時代、代々親王が山主に就いていたという話だった。そうだ、乾山も公寛法親王に伴って、二条丁子屋町から江戸に下向して入谷に窯を構えたのだった。


ということは、乾山も法親王から時々お召しがあって、あの門をくぐって、ちょうど東博の場所にあった本坊(輪王寺)に通ったりしたのだろうか。自分もよく行くところだから、何だか、しみじみうれしくなる。次に東博に行く時は、あの元輪王寺の門をしみじみ眺めて、今は東博の裏手にある寛永寺にも行ってみよう。


折しも東博は大琳派展。ああ、きっと大混雑だろうけど、致し方なし!