国立能楽堂 普及公演 茶壺 鵺

解説・能楽あんない  
妄執の行方  村瀬和子
狂言 茶壺(ちゃつぼ)  野村祐丞(和泉流
能 鵺(ぬえ) 白頭(はくとう) 浅見真州(観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1797.html

解説・能楽あんない 妄執の行方

冒頭に出てくる情景描写の謡、

地謡  こがれて堪へぬ古を。
シテ  忍びはつべき、隙ぞなき。

は、二つの本歌があるとか。地謡の方は聞き漏らしたけど、シテの方は、西行の歌と言っていたような気がする。西行の方はどんな状況での歌だったのだろう。待賢門院を慕う恋歌だろうか。和歌をもっと知りたいと、切実に思う!


ところで、このお能に出てくる鵺という鳥は本当は何だったのだろう?

トラツグミという鳥のことを別名、鵺というらしいが、平家物語に出てくる怪鳥、鵺は明らかに違う。平家物語の鵺の話は、一度だけ出てくるなら話に尾ひれがついたものとも考えられるが、二度も出てくる(しかも両方とも源頼政が退治している)。ちなみに、トラツグミである鵺の方は、解説をして下さった村瀬和子さんのお話によれば、にゃあというような鳴き声らしい。



茶壷

パンフレットによれば、私の好きな明恵上人が栄西から分けてもらったお茶は、その後、本格的に栽培され、栂尾茶のことを「本茶」、それ以外を「非茶」(あられもないネーミング)というようになったという。中世には既にブランドが確立していたのだ。ブランディングの教科書に、ちゃんと載せるべきだ。

それと、闘茶というのは香道とかテイスティングみたいなものかと思っていたけど、お茶の本非を当てる賭け事なのだとか。

また、入日記というのが狂言の中に出てくるのだが、収穫の日付等が書いてある文書が、茶壷の中に入れてあるという。つまり、現在、食の安全が云々で製造年月日の改ざんがどーのこーの、という話題が世間を騒がしているが、中世の人だって、既に記録に基づく品質管理を行っているのである。すごいなあ。

全然、狂言の感想ではないですが。。。


鵺 白頭

最初、ワキの僧が、夜な夜な舟に乗ってくる前シテの舟人に対して、
 「塩焼く海人だというが、暇ありげに夜な夜な出てくるのはおかしいではないの」
と疑問を投げかける。私だったら「いらんお世話じゃ!」と返したくなるけど、舟人はちゃんと応える。お能の冒頭の会話って、大抵、唐突な展開でちょっと可笑しい。世阿弥は確かに不世出の天才だと思うけど、ひょっとして会話の台詞は苦手だったのだろうか?

ちなみに、舟人は何と答えたかと言うと、「そりゃ、お疑いも当然、古い歌にも『芦の屋の灘の塩焼き暇なみ、黄楊の小櫛は挿さで来にけり』って言いますからね」と答える。これは、伊勢物語の八十七段にある歌だ。多分、鵺が流された難波の海伝いの芦屋に舞台を設定したので、この歌を出そうと思ったのだろう。謡はまるで言葉が言葉をつないでいく長歌連歌みたいだ。


後シテは鵺だが、白頭の小書で真白の頭に真白の装束だ。白頭になると格が高くなるという。確かに白い姿は神々しい感じがする。そして、鵺は頼政に撃たれたときの様子を地謡に仮託して語るのだが、天皇のご悩の話の時は、あたかも天皇に見え、頼政の様子を語る時は、頼政、鵺自身の話の時は鵺と変化自在に姿を変えて語る。まるで舞台上で魔法を見せられているように、どんどん変化していく。不思議だ。何故、ただ舞っているだけなのに、違う登場人物が入れ替わり立ち替わり現れてくるように見えるのだろう。鵺を撃った後、頼政は、右大臣に「ほととぎす、名をも雲居にあぐるかな」と詠いかけられると、右の膝をつき、左の袖を広げ、月を少し目にかけて、「弓張月のいるにまかせて」と下の句を付ける。うーん、カッコイイ。この場面、平家物語を読んだ時から、見てみたかったのだ。


するとまた、シテは鵺に戻って、「流レ足」という型で、淀川を芦の屋に向けて流されて消えていく。そこまできて、いつのまにか話の舞台が芦の屋から御所に移ってきていたことに気がついた。全く舞台装置も無いし、面や装束を変えるわけでもないのに、登場人物も場所も、変化自在なお能という芸能。何て面白い世界なんだろう。


ところで、今回の「鵺」に出て来る源頼政は、平清盛の時代に清和源氏の出ながら従三位まで登り詰めた人で、歌人でもある。


これだけ聞くと、頼政は有能で「もののあはれ」がわかる人、という好ましい感じがする。ところが、「平家物語」に出て来る頼政は、そういったイメージでは括りきれない。


一つ目のイメージとしては、その如才なさ。例えば、平家物語に出て来る頼政の歌のうちの二つは、昇進が無いことを嘆く歌で、それらによって昇進を許された。もっともそのような話は当時は他にもあるとはいえ、歌を立身のためのツールとして効果的に使った人であった。


また、二つ目にはクールな男振り。平家物語には、頼政の二度に亘る鵺退治の話が描かれているが、それが象徴的。一度目は鵺退治の後、左大臣から、「ほとゝぎす名をも雲井にあぐるかな」と歌い掛けられて、頼政は、右の膝をつき、左の袖を広げ、横目に月を見ながら「弓はり月のいるにまかせて」(偶然射止めただけです)と答えている。二度目は、やはり退治後、右大臣が、「五月やみ名をあらはせるこよひかな」(今宵闇に名を上げたな)と詠み掛けると、頼政は、「たそかれ時もすぎぬとおもふに」(黄昏が過ぎて暗くなりましたので名乗ったまでのことです)と答えて、御衣を肩に掛けて退出したという(当時、褒美に衣をもらった時は肩に掛けるのが作法だったそうだ)。


そして、三つ目は、本心を見せない不気味さ。

70才を過ぎた最晩年に以仁王を担いで平家に反乱を起こした末、宇治平等院で自害する。その時の辞世の句は、
 「埋もれ木のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける」
というものだ。

結局、頼政は、ずっと自分の本心を押し殺して、一族郎党のために、平家に仕えてきたのだ。恐らく、そこに、この頼政という人が、複雑な人間像を持つに至った根源があるのだろう。お能の鵺では、鵺が頼政だとはどこにも示唆されていないのに、何となく、そんな気がしてしまう。頼政の本心を隠した不気味な部分が、鵺を想像させるのだろう。


頼政も、若いころは平家全盛の世ではあるが、最善を尽くしてやっていこうという気概もあったであろう。平家物語には渡辺競(きおう)という頼政一筋の忠臣も出てくるし、一族の者に慕われた良き棟梁だったのだろう。頼政が従う平家の公達にしても、自分を従三位に引き上げた清盛や人格者の重盛等、敬意を表したくなる人々もいたに違いない。けれども、平家が「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるような栄華を極めた時代において、宗盛のように増長する平家の人間も出てきて、平家でない人間にとっては不遇にかこち、鬱屈するような場面も多かったのだろう。


頼政が反乱をおこすきっかけとなったのは、頼政の息子、仲綱の馬を宗盛が無理やり欲しがった一件で、なぜ、そんなことで、とも思うが、以仁王を説得する時の言葉は少し不気味だ。「もしおぼしめし立たせ給いて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦(よろこび)をなして参らむずる源氏どもこそおほう候らへ」と言って、岩波文庫平家物語では1ページに亘って、反乱に加わるであろう人の名前を列挙しているのだ。その中には、木曽義仲も出てくるし、流人となっている頼朝も出てくる。


最終的に、頼政以仁王の擁立に失敗し、自害することになった。しかし、それは、そこで終わらなかった。その後も、頼政が名前を挙げた人々が打倒平家の狼煙を上げていったのだった。