京都御所&仁和寺

京都御所
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%BE%A1%E6%89%80

仁和寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%92%8C%E5%AF%BA


京都御所

今年は源氏物語千年紀で源氏物語にちなんだ特別展やお能が多い。このチャンスに源氏物語に関連するものを色々見聞きしてみようと思い、京都御所にも行ってみた。通常は、京都御所は、事前申し込みをしないと観覧できないのだが、年に二回、一般公開されており、今回は秋の一般公開を利用した。

朝寝坊してしまい、昼ごろやっと京都についた。土曜日だし、天気は良いし、京都駅は大混雑。この調子ならどう考えても京都御所だって大混雑に決まっているので、文庫本を何冊も持って行くことにした。そして、二時間位なら根気よく並ぼう!と気合を入れた。ところが、今出川の駅を出てみたら、全然観覧の列などなかったのだ。拍子ぬけ。

まず面白かったのは、貴族の乗る牛車。御所の中に入ると最初に目にするのは車寄せなのだが、そこをもう少し行った月華門のあたりに牛車のレプリカが置かれていたのだ。私が目にするもので牛車に似ているものといえば、観光地を走っている人力車。したがって、今まで牛車、御所車と言えば、人力車をゴーカに装飾したものを想像していたのだが、人力車よりは、ずーっと大きかった。リムジンぐらいの長さだろうか。高さも車の車輪が大きいせいもあって建物の二階に届くぐらいはあったろうか。枕草子の六段に、「きちんと身なりを整えないままに大進生晶の家の門を車で通ろうとしたが、門が小さくて車が通らず、結局、庭に車を寄せて歩いて門をくぐらなければならかったのが腹立たしかった」という文章があるけど、そんなこともありなん、という感じ。

それから、建礼門。建礼門というのは、御所の正門に当たるところにある。同じ名前を持つ建礼門院はそれだけ、重要な位置にあったということなんだろう。それにしても、あの時代、建礼門院とか美福門院とか、待賢門院とか、何故に門の名前を女院にあてる習慣があったのだろう?

紫宸殿は、ものすごく大きくて感動した。高床式で階段を登りきったところに天皇の座る「高御座(たかみくら)」、皇后の座る「御帳台(みちょうだい)」がある。ちょうど二階建の二階ぐらいの高さだろうか。これは確かに人と話すには取次がいりますな。それで思い出したのは、百人一首にある伊勢大輔の「古の奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」だ。この歌は、一条天皇の御時、奈良から八重桜が届き、天皇への取次を紫式部から譲られた伊勢大輔が、即座に詠んだとされる。もしこれが紫宸殿で詠まれた歌だとしたら、一条天皇、関白道長、紫式部の同席の下、若い伊勢大輔が、内裏という舞台装置で八重桜を詠み込んだ歌を詠んだ風景は、大層美しかっただろう。…と思ったが、考えてみれば、紫宸殿は御所内で最も格式の高い部屋であり、献上された桜を受け取るだけなら、別の部屋が用いられるのだろう。

清涼殿は、平安時代天皇が日常生活を送ったところ、御常御殿室町時代以降、天皇が日常生活を送ったところ。明治天皇も東京へ来るまでは、ここで生活をしていたらしい。一部屋一部屋が小さいのが意外。何故だろう。暖房効率のためだろうか?小さい部屋の方が実は落ち着くからか?それとも本当は大きな部屋なのに紫宸殿を見てしまったがために小さく見えるだけ?

それから、庭園。秋といえば「まっかな秋、やっぱ紅葉だよねー!」と思うのは、下々の者の発想のようで、御所には、松や銀杏、紅葉が点在していて、まさに錦のつづれ織のような景色。

大満足の京都御所でした。


仁和寺

それから、御室仁和寺にも行った。何故仁和寺かというと、まず、大好きな雁金屋ブラザーズの乾山が伺候した仁和寺仁和寺の許可を得て窯を開いた御室の雰囲気というのを見てみたいと思ったから。それから、京都御所の紫宸殿は寛政の再建の時、紫宸殿を仁和寺の金堂として下賜されたということだったので、そっちの方も見たいと思った。

仁和寺は、光孝天皇が西山御願寺として着工し、仁和4年(888年)、宇多天皇の時に完成した。光孝天皇は、藤原基経により陽成天皇が廃された後に御位に就いた天皇で、宇多天皇は、その次の天皇宇多天皇菅原道真を重用し、平和な御代を治めたお方だ。また、寛平御時后宮歌合をはじめとする歌合を催して、古今集にも載っている。宇多天皇の後も皇族が門跡となったという。

まずは御殿の中に入ってみたのだが、その雅な庭園に見る人は嘆息する。錦の紅葉のその先に五重塔が見える見事な景色に、うっとり。みな思い思いに座り込んでいる。また、どの部屋もそれぞれに美しくしつらえてあり、欄間もクラクラするほど精巧。障壁画が比較的新しい時代のものであるのが気になったのだが、Webページを見ると、明治二十年に焼失して大正時代に御殿全体が新築されたとのこと。どおりで。ああ、本当は光琳の障壁画とかがあったりしたのだろーか。遼廓亭という光琳の茶室を移築したものがあったが、非公開。ケチ。しかし、観光客が中に入って消耗してしまうよりはマシか。

宝物殿では、和歌を良くして新古今和歌集にその名を冠した歌合がよくでてくる守覚法親王の文書が多くあった。和歌からの連想で、何となく素性法師とか能因法師みたいに有閑階級の文人を想像していたが、きちんと仏法を修めた人であったらしい。霊験あらたかな孔雀経というのが必殺技だったようだ。安徳天皇の誕生の際も孔雀経修法を行い、その時の高倉天皇の礼状が展示されていたりする。この礼状は高倉天皇の唯一現存する自筆の書状であるらしい。安徳天皇の行く末を知る由もない高倉天皇が、安徳天皇の誕生を心から喜んでいる様子は見ると胸が痛む。誕生に際して大々的な法要が執り行われた安徳天皇が結局、幼くして源平の争いに巻き込まれて亡くなった悲劇は単なる物語ではなく、真実の話なのだと改めて思いおこされた。

宝物殿には乾山や光琳のものが何かあるかと期待していたが、特になし。全然無いいうのはおかしいわあ。きっと下々の者には見せんといて、偉い人たちだけでこっそり使うてはるんやわ。いけずー。おおきに。ぶぶ漬けでもいかがどすか。(以上、出まかせ京都弁のつもり)

気を取り直して、金堂を見に行く。先ほど京都御所で見た紫宸殿よりずっと小さいけど、紫宸殿と同じ形をしていていて感動。高床式だし、蔀戸もあるし、金具などに菊のご紋を見つけたりして、本当に紫宸殿だということを確認する。紅葉に映えてとても美しい。紅葉といっても、ここも京都御所と同じく、もみじ一辺倒ではない。常緑樹もあれば黄色や赤の様々な色に紅葉する木々もあり、山茶花も咲き始め、という調子で色鮮やか。まさに錦秋という言葉がぴったりなのだった。乾山の「色絵紅葉文透彫反鉢」、「色絵龍田川文透彫反鉢」、「色絵紅葉文壺」、「色絵龍田川文向付」等、赤、黄、緑のもみじが踊る絵付けは、完全にデザインによるものかと思っていたが、こういった風景を見なれた乾山にとっては、一種の写実だったに違いない。

仁和寺の西門を出てみると、仁和寺の西側には、風流に住みなす閑静な家並が続く一画があった。昔の仁和寺の門前もこんな雰囲気だったとしたら、そのような生活を肌で感じた乾山や光琳は、どう思っただろうか。

他にもいろいろ訪れたいところはあったのだが、力尽きてしまったので、この日はこれでお終い。最後にふと徒然草の「仁和寺にある法師」の話を思い出した。宿願の石清水八幡詣でに行った仁和寺の僧、実は、石清水八幡は山の上にあるのにその手前の麓にある別の神社を参拝したのに気が付かず、「山の上に人が沢山上っておりましたが、一体何があったのでしょう」とか言ったという話。私はおっちょこちょいなので、いつもこの法師と同じようなことをしている。今回も同じように取りこぼしをしているに違いない。特に仁和寺は、周辺をいろいろ散策したかったのだが、叶わなかった。また、再訪しなくては。