国立能楽堂 定例公演 引括 融

狂言 引括(ひっくくり) 野村萬斎和泉流
能  融(とおる) 舞返之伝(まいがえしのでん) 木月孚行(観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1803.html

引括

「わわしい」妻をどうにか遺恨を残さず離縁しようとして様々なことを言う夫と、それに対してわわしく?対抗する妻、最終的に妻は暇を出されることに同意し、夫は妻になんなりと好きなものを持って行くよう言う。そして袋を持ってきた妻が持っていこうとしたものとは…というお話。

シテの萬斎師は、「時めく」とか「花」という言葉がこれほどぴったりな人はいないと思えてしまう御方。その一言一言に見所がどっと沸く。一年間定期公演を見てきたけど、最も笑いの多かった公演だったかも。私はお能もさることながら狂言も初心者で萬斎師のこともほとんど知らないので、完全に蚊帳の外。ああ、私も彼の魅力の魔法にかかりたかった。

ところでこのお話の結末は、とっても可愛いのだ。この後はしばらくは夫婦仲睦ましく暮らしたに違いない。


融 舞返之伝

少なくとも後シテの融大臣はとってもかっこよくて、安心した。というのも、前に、お能の「雲林院」を観たとき、そのシテである在原業平が私の思い描いていた業平像からあまりにかけ離れていてショックだったからだ。前シテこそ、腰蓑をつけ田子(振り分け桶)を背負った老人の姿だったが、後シテの融大臣は、雲林院の業平というよりは、清経みたい。黒垂に初冠、白地に霞文の狩衣、紅(朱)に草花の丸文の入った指貫という出で立ちで、貴族らしい優美な装束。面は、前シテが笑尉、後シテが中将だった。笑尉というのは、笑った顔なのだろうか、遠くからは良く見えなかった。また、中将の面というのは、面単独で展示されているのを見ると、ムンクの叫びみたいで怖いことこの上ないのであるが、こうやって能楽師が着けて能舞台で見ると、中性的な優しい顔立ちになる。観るたびに不思議に思う。

後シテが出てきて、河原院での在りし日の華やかな様子を語ると、早舞になる。その前の詞章も素敵だが、この早舞も圧巻。しかも長くて、いつまでも観ていたいという気持ちを満足させてくれる。この長いのが、小書きの「舞返之伝」ということで、初段から笛が一調子高くなる[盤渉早舞]で「常の五段+添えの三段」となるとか。なんとなーく、意味は、分かる気はする。

最後、囃子と地謡の終わる前にシテはお幕に入ってしまうのだが、その後を追って、行ってしまった…と、見所の中正の方を見つめるワキが面白い。まるで羽衣の最後のよう。

詞章も流石、融大臣がシテのお能だけあって、風流で楽しかった。例えば、推敲の故事を引いた

シテ もしも賈島(がとう)が詞(ことば)やらん、島や宿す池中(ちちゅう)の樹
ワキ 僧は敲(たた)く月下の門
シテ 推すも
ワキ 敲くも
シテ 古人の心

とか、古今集の貫之が融大臣の河原院の荒廃を嘆いた歌、

君まさで煙絶えにし塩竃の、うら淋しくも見えわたるかな

が出てくるし、「名所教え」で京の名所の名前が出てきたりする。音羽山、歌の中山清閑寺<せいがんじ>、今熊野、稲荷山、藤の森、深草山、木幡山伏見の竹田、淀鳥羽、小塩、松の尾、嵐山…と名前を挙げられると、ああ、また京都に行きたくなってくる。


パンフレットの解説も興味深かった。まず、河原院の塩竃は、歌枕であり、融大臣が赴任していたところでもある、「千賀の塩竃」を模したものだが、それについて、

狂言の流儀によっては「難波津、敷津、高津の三つの裏から、一日三千人の人足を使って海水を運ばせた」と語られるように、創造を絶する手間をかけ庭内で製塩を試みたのは、何も自給自足のためではありません。陸奥(現在の宮城県)の歌枕(特定のイメージを伴って和歌に詠まれる公認の名所)、千賀の塩竃の光景を模す、極限の風流とも祐べき道楽なのです。これは、例えば、江戸時代の大名が自邸の回遊式庭園に東海道五十三次のミニチュアを設けた深層心理にも通ずる、富と権力によって虚構の空間をわが物とする造園思想。塩釜は辺陬(すう)僻地の一漁村の模型であることを超え、融が君臨する邸宅=小宇宙の一部を支えているのです。

とあった。ふーむ、謎だった河原院の塩竃は、そんなにすごいことだったのか。融くんの発想のスケールが大きすぎて、小市民には分らんかった。それでも、塩竃が和歌にいかに重要なモチーフかということは、最近ちょっとは分かってきた。塩竈に関連する言葉の数々、例えば、海人(=尼)、袖に藻塩たれる(=涙で袖を濡らす)、塩焼きの煙に焦がれる(=恋に身を焦がす)といった縁語や、海からイメージされる海草の「みるめ」(=会う機会)、袖濡らす等々、これらの言葉が詠み込まれた和歌がいっぱいある。

ふと、千賀の浦って今はどうなってるのだろうと思って調べてみたら、ちゃんとありました。詞章に出てくる籬が島もちゃんとあって、感動。
http://www.bashouan.com/psBashouNs15B14_1.htm

それから、パンフレットによれば、河原院は東本願寺の別院、渉成園がその遺構とされるのは間違いで、実際には北隣の鴨川畔に位置していたとか。渉成園の存在自体知らなかった。そして渉成園の北隣あたりを地図で見てみると、本塩釜町などという地名が!
http://www.city.shiogama.miyagi.jp/attach/DL/87/attach/5.PDF

以前、市町村合併で地名が消える、というような話があったけど、由緒ある地名は後の人のためにも残しておいてほしいものですね。


特別展 住友コレクション展

第二期。第一期に引き続き、こちらも逸品ぞろい。やっぱり昔の装束は素晴らしい。最近、どんどん目が肥えてしまって、能装束の写真を見ても良し悪しを勝手に採点してしまう。良いのか悪いのか。しかし、展示されているのと能舞台で見るのは全然違ったりする。そこが面白くもある。そして、例え舞台では視認できなくても、それを百も承知できちんと繊細な刺繍を施したりする昔の日本人は偉かったと、心の中でしみじみ敬意を表すのだった。