出光美術館 陶磁の東西交流

やきものに親しむVI 陶磁の東西交流
―景徳鎮・柿右衛門古伊万里からデルフト・マイセン― 特集展示:南蛮風俗図
2008年11月1日(土)〜12月23日(火・祝)

http://www.idemitsu.co.jp/museum/honkan/exhibition/present/index.html

それほど珍しい文様の磁器は無かったけど、中国の景徳鎮と、日本の古伊万里柿右衛門、そして欧州の窯が様々な形でお互いに影響を及ぼしてきたことが、一目瞭然で、頭の中がすっきりした。今まで、伊万里柿右衛門、鍋島等が中国美術の影響を色濃く受けているのに、大和絵や和歌、謡曲などの影響を受けた形跡があまり無いのが疑問だった。が、こうやって見てみると、陶磁器においては、景徳鎮、有田、欧州の窯が大きな渦を描いて、最終的にはお互いに影響を及ぼし合っていたということが良く分った。

それにしても、何せ大変な距離を隔て、文化も異なる地域同士が影響を与えあったのだから、当然のことながら、誤解もあった。籬(まがき)が欧州に行ってバスケットのようになってしまったり、何故か梅菊という季節の全く違う花が一緒になった文様ができたり、中国の八重にも見える紅梅が欧州では薔薇のようになったり、日本の縁側が理解されず単なる文様になったり…。

後には、消費地側の欧州の方から注文が来るのだが、それがまた、西洋のことを知らない有田の職人達には通じず、不思議な絵ができたりしている。例えばケンタウルスの大皿など、半人半馬の馬の部分は妙に出来がいいのだが、肝心の半人の方は、筋肉の落ちた出っ腹の小父さん風。これを大広間に飾ったら、必ずや物笑いの種となるだろう。有田の絵付職人だって、何故にこんな絵を注文したのか不可解に思ったことだろう。その後、色絵を描く前の磁器を輸出し、欧州で絵付けをしていたことがあったようだが、磁器が単なる異国趣味から自分たちの生活を飾る装飾品として強く意識されたことの証左であろう。江戸時代の日本画に西洋の銅版画を基にした西洋画風のものがあるが、あのようなことは伊万里の制作現場では考えられなかったのだろうか。

それぞれの地域の職人達は、元となる磁器や予想もしない注文に、首を捻りながら文様を描いたに違いない。もし彼等愛すべき職人達が一同に会して話し合う機会があったら、お互い大笑いしただろう。


それから、私の備忘録。伊万里の有名な文様のひとつに、ある中国の故事を描いたものがあるのだが、絵付けをした職人が故事を知らずに間違って文様を写したため、おかしなデザインになってしまっているものがあるのだ。私はいつも元の故事の方を忘れてしまい、その間違ったデザインも間違っているが故にその故事を思い出すよすがにならず、もやもやした思いをしていた。今回、元の司馬光の故事について、ちゃんと解説があって助かった。ここにも書いておけば、きっと忘れないに違いない。

その故事というのは、こういうものだ。司馬光が子供の頃、友達と遊んでいると、友達が甕の水の中に落ちてしまった。他の人は甕から助けようとして上手くいかずオロオロしていたが、司馬公は冷静に甕に石を投げて割ることにより、友達を無事、助けたという。つまり、膝丈の甕の中でかくれんぼしている幼い子供に石を投げていじめようとしている悪い子の絵ではないわけです(そのようにしか見えん!)。
http://www.umakato.jp/column_ceramic/b_vol18.html

この司馬公の故事を読んだ時、ふと「吾輩は猫である」の結末を思い出した。あの猫くんも、最後、甕に落ちた時に、にゃーにゃーと大きな声で鳴けば、学のある苦沙弥先生が司馬公の故事を思い出して甕を割って救ってくれたかもしれない。私は子供の頃から猫を飼っていたので、どうもあのラストがトラウマになっているようだ。