今昔物語の融大臣

国立能楽堂のパンフレットの「融」の解説に、融大臣の幽霊の話が今昔物語に載っているということが書いてあった。

それで早速、今昔物語を読んでみると、なるほど、巻第二十七の第二に「川原の院の融の左大臣の霊(りょう)を、宇陀院(うだのいん)見給える語(こと)」という記事がある。
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/konjaku/frame/kj27/kj27fr01.htm

それによれば、融大臣の次男、昇が宇多天皇に河原院を奉ったのだとのことだ。そして、その河原院に宇多院が住まっていた頃、融大臣の幽霊が出たというのだ。

融大臣は、衣ずれの音をさせながら束帯姿で宇多院の前に現れると、「自分の家なので住んでいたのですが、このように院がいらっしゃると畏れ多く気詰まりに存じます。いかがすればよいでしょうか」と厭味?を言う。そこで、宇多院が、「それは違うぞ、私は人の家を強奪した覚えはない。大臣の子孫がくれたので住んでいるのだ。いくら、何かの霊だといっても、事の道理を弁えず、なぜそのようなことを言うのだ。」と応じると、掻き消すように失せてしまったという。

河原院が荒廃したのもむべなるかな。嵯峨天皇の息子で左大臣まで上り詰めた人の幽霊が出てくるようなところには、よくよくの人でないと住みたいとは思わないだろう。

そして、誰も住まない廃屋となり、紀貫之が「君まさで煙絶えにし塩竃の、うら淋しくも見えわたるかな」と詠んだ。さらにその百年後、河原院には融の曾孫の安法法師が住み、友人である恵慶法師は、あの百人一首にある「八重むぐらしげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり」という一首を詠んだ。ここに出てくる宿は河原院、人は融大臣であった。