何故、文楽や歌舞伎の実盛はサワヤカ系なのか

源平布引滝の九郎助内の段(歌舞伎では実盛物語)を観ていて不思議なのは、なぜ、斉藤実盛は、爽やかな捌き役になってしまっているのか、ということだ。

平家物語の中の斉藤別当実盛は、サワヤカ系というよりはゴーカイな荒武者で、多分当時の実盛を知る人がタイムマシンに乗って特に歌舞伎の実盛なんかを観たら、ブーイング間違いなしだと思う。お能の実盛も、ほぼ平家物語に沿った内容で面も尉系(ちょっと恐い老人の顔)のものだ。

それではどういう理由で浄瑠璃では実盛がサワヤカな捌き役になってしまったかを考えると、瀬尾十郎との対比という意味があるのではないかと思う。

つまり、こういうことだ。源平布引滝の構想を練る際、三段目では平家物語源平盛衰記の世界の人物で、過去の浄瑠璃で大きな当たりを取っていない有名な人物として斉藤別当実盛を取り上げることになったのだろう。そして、浄瑠璃作者達は、実盛を取り上げるにあたり、有名な逸話として、実盛が幼い木曾義仲の命を助けた関係であったことと、手塚太郎光盛が実盛を討ち取ったエピソードを盛り込むことを考えたに違いない。そして、ここでは物語の進行上、義仲の命を助けた場面を舞台設定として選らんだのだろう。また、話の盛り上がりを作るための常套手段として、誰かが切腹するなりするような流れを考えたとしても、不思議は無い。

そうなると、源氏に寝返ることも考えた実盛のことだから、実盛がモドリで切腹するなりすればいい気もする。がしかし、実盛は将来、手塚太郎に首をとられなければならないから、ここで死ぬわけにはいかない。すると、誰か別の人間が、モドリで死ぬというシナリオを考えた方が良さそうだ。そういう訳で、赤っ面の瀬尾十郎という人物(と、小まん、太郎吉と瀬尾との関係)が設定されたのではないだろうか。

そして、瀬尾という赤っ面が設定されると、実盛がゴーカイな荒武者系の人物のままではキャラが被ってしまい、演出上、どうもよろしくない。という訳で、実盛は、厳しい詮議をする赤っ面の瀬尾とは反対の、サワヤカな捌き役という役どころに落ち着いたのではないだろうか。これなら、主役としてもしっくりとくる役どころだ。

さらに、歌舞伎ではサワヤカな実盛役者を得て、ますますそのサワヤカさを強調する演出が工夫されていったのだろう。…というのが私の妄想なのだが、本当のところは、如何に、実盛。