すみだ郷土文化資料館 開館十周年記念特別展 「隅田川文化の誕生 −梅若伝説と幻の町・隅田宿−」

開館十周年記念特別展 「隅田川文化の誕生 −梅若伝説と幻の町・隅田宿−」
開催期間:平成20(2008)年11月15日(土曜日)から平成21(2009)年1月16日(金曜日) 
http://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/info/sumidagawabunnka/index.html

お能隅田川歌舞伎舞踊隅田川は、TVでしか見たことがないけれど、TVで見ると凄まじく眠くなるのだ(生の舞台ではないというのも一因かとは思うけど)。
そこで、梅若伝説の展示があるというので、少しでも隅田川の理解の足しになればと思い、行って来ました。
200円の観覧料にもかかわらず盛り沢山の内容で、今後お能や歌舞伎を観る上でおおいに参考になりそう。今度お能隅田川を見たとき、この梅若伝説を思い出して感動のあまり泣き伏すか、思い入れが強すぎて舞台にがっかりするか、今から楽しみだ。
ちなみに写真の桜は長命寺近くに咲いていた桜。十月桜といって十月ぐらいから咲く桜だそう。隅田川とくれば桜なのだ。


中世隅田川辺について

冒頭には、そもそも中世の隅田川(角田川)流域はどのようなところだったか、についての資料が展示されていた。今の賑わいや隅田川が出てくる歌舞伎の演目等から察するに、昔からかなり栄えていたのは自明という印象があるが、そう簡単な話ではないようだ。

まず、隅田川の渡しについて、平安初期以来、今の台東区浅草の橋場付近と墨田区堤通付近を結ぶ古代東海道が通過していており、その付近に渡しがあったのだそうだ。つまり、伊勢物語の第九段で在原業平隅田川の渡守から都鳥の話を聞いて詠んだ歌、

名にし負はばいざこととはむ都鳥
わが思ふ人はありやなしやと

は、もし実話であれば、まさにこのあたりで詠まれたものなのだった。言問橋はその逸話から名づけられた橋というが、実際には、当時の渡しは今の白髯橋の少し北寄りあたりということになる。

中世には、江戸時代以降には消滅してしまった隅田宿(すだのしゅく)という宿場町があり、お能隅田川の舞台はその隅田宿だと推察されるのだそうだ。何故なら中世の人買いの出てくる説話は、都市と強く結びついているからだという。場所は、今の墨田区堤の東白髯公園のあたりで、隅田宿千軒(すだせんげん)という言い方があるくらい、栄えた宿場町だったようだ。

それと、隅田川の話とは離れるが、「石枕伝説」について知ることが出来たのが良かった。前に一度どこかで読んで、その後すっかりどこで読んだのか忘れてしまい、困っていたのだ。石枕伝説とは、次のようなものだ。今の台東区一ツ家の辺り(または橋場の辺り)はかつては浅茅が原と呼ばれ、家が一件建っているのみだった。そこには老夫婦と美しい娘がおり、旅人を泊めては娘と共寝させ、旅人が眠った隙に石の枕で頭を殴り、その所持品を奪って生計を立てていた。ある日、婆がいつもどおり石枕で旅人を襲い殺すと、それは旅人の身替りとなった娘であった――。


梅若絵巻の世界

次いで、梅若伝説の全貌について、いくつかの絵巻を紐解いて解説がされている。展示されているのは、主に、木母寺(もくぼじ、梅の文字を木と母に分解した名称、旧名梅若寺)所蔵の、延宝7年(1679年)に寄進された「梅若権現御縁起」と、享保元年(1716年)以前に成立した「梅若丸」、そして、ニューヨーク国立図書館スペンサー・コレクション蔵の「梅若丸伝記」(写真展示)である。

三つの絵巻は少しずつ異同があるのだが、梅若伝説というのは、主に前半が謡曲の「班女」、後半が「隅田川」になっているということが分かり、非常に興味深かった。歌舞伎舞踊の方では、母の名前が「班女の前」となっているようであるが、実際に、謡曲の班女のシテ、花子が梅若の母なのである。

謡曲の班女は世阿弥の作と言われているが、その後日譚を息子の元雅が謡曲にしたというのは、なかなか興味深い。また、その隅田川の演出については、世阿弥と元雅が子方を出すか出さぬかについて意見が分かれ、子方は出さぬ方が良いと主張していた世阿弥が最後に「して見てよきにつくべし」(やってみて良い方にすればよい)と言い、元雅は子方を出す演出を取ったという話は有名だ。


さて、肝心の梅若伝説であるが、三つの絵巻のうち、一番詳しいNY市立図書館スペンサー・コレクションの梅若丸伝記を中心にまとめると、次のような話となっているのだった。

文治、建久の頃(1185年〜1199年)、甲斐国に松浦源左衛門尉政利という人がおり、出家して道源と名乗っていた。ある日、子供を授かりたいと妻と共に御嶽権現で百日詣をして百日目に桜を一枝賜る夢を見て花子が生まれる。

しかし、道源はまもなく亡くなり、忽ち没落してしまったため、母は花子をつれて実家のある美濃国を目指し、従者と共に旅に出る。ところが、従者は旅の途上で亡くなってしまう。さらに美濃の野上に着くと既に母の縁者は無く、失意の日々を送ることになる。そこに「美しい花子をこの地の長者のもとにやってはどうか」という話が持ち上がり、母は長者のもと立ち寄る旅人に花子を託した。

旅の途中で吉田の少将という絵の好きな青年と出会い、一夜の契りを交わす。互いに扇を交換して分かれるものの、花子は野上の長者のところでは心空しく、とうとう野上の長者は花子を追い出してしまう。それで花子は狂女となり、京の賀茂の糾の河原に行くと、旅を終えて下賀茂神社詣に来た少将と偶然出会い、お互いに取り交わした扇で少将と花子であることを知った二人は泣き伏せる。その後、二人は夫婦になって北白川に帰っていくのであった。

その後、二人は子供を授かりたいと北野天神に詣でたところ、夢の中で「咲きもせぬ梅のつぼみは何かせん」という不吉なお告げを賜り、子供が生まれる。その美しい男の子には梅若丸という名前を付けて二人は可愛がった。

しかし、父の少将は梅若丸が8才の時に亡くなり、梅若丸の将来を案じた花子は少将の兄で比叡山で僧となっている人に梅若丸を預けるべく、梅若丸を比叡山に登らせるが、信夫藤太という人商人(人買い)が言葉巧みに梅若丸を言いくるめて東国にさらって行ってしまう。

花子は何時までたっても帰ってこない梅若丸を心配し、会う人ごとに梅若丸の消息を尋ねるが、ある人に「人商人がたくさんの子供を連れて東国に行った」と聞く。そこで花子は、東国へ急ぐ。一方、梅若丸は武蔵の国までやってっきたものの、それ以上動けなくなり倒れ臥してしまう。人商人は梅若丸をそのまま捨て置き陸奥へ行くが、里人が介抱する。しかし病状はかばかしくなく、梅若丸は、自分の出自を語り、柳を墓に植えて欲しいと言うと、息を引き取ってしまう。

亡くなった一年後の三月十五日、折りしも母が角田川の渡しをわたろうとした時、舟の中で梅若の話を聞く。母は茫然としながらも梅若丸の塚の前で念仏し、鉦鼓を叩く。すると、梅若丸の面影が現れるのだった。

母はその後出家し、妙亀比丘尼と名乗り、川向こうに庵を結んだ。そしてある日、浅茅が原(台東区橋場のあたり)のある池の水鏡に自分の姿を映すと「かくばかりわがおもかげはかはりけり あさぢが池のかがみを見て」と詠い、入水してしまった。

かくして隅田川の能は、こんな長大な悲劇を背景にした物語なのだった。


この波乱万乗の物語自体、とても興味感慨深いのであるが、他にも色々と興味深い点がある。

まず、この梅若丸伝記は、梅若丸の話というより、母、花子(花御前)の生涯の話になっていること。

それから、母は桜から取られた名前(花子)で、子供の名前は梅から来ている(一応、伝説では天神様に由来を求めている)ということも面白い。梅という言葉は産めにも通じる。一方、人商人の信夫藤太はどう考えても後付けの名前だ。陸奥からの連想で信夫としているのだろうし、藤太は俵藤太等からの連想だろう。

さらに上記のあらすじには書き込まなかったが、登場人物達が随分と広い地域を旅している点が面白い。花子の父は筑紫肥前国の出身、母は美濃国の出身で二人は甲斐国に住み、母と花子は父の死後、美濃国に徒歩で行く。また少将は花子に出会った後、伊豆まで行って富士山を絵に描いてから都に戻って帝に富士の様子を報告している。また、梅若丸を見取った阿闍梨は、出羽国羽黒山出身で下総国で僧をしていおり偶然隅田川を通りがかったことになっている。この物語が成立したと思われる平安末期から鎌倉時代、人は思った以上にカジュアルに旅をしているようだ。

最後に、狂女というものについて。花子が狂女となって東国に梅若丸を探しに行くことについて、梅若権現御縁起の中では、「普通の旅装束では危ないので、笹の枝に紙手を付けたものをもち、狂女のなりをし旅をすることにした」と理由を述べている。室町時代に成立した能では何の説明も無く狂女となって旅をする曲がいくつかあり(隅田川、班女、三井寺、蝉丸の逆髪等)、それが実際にはどいういうことなのであるか私には謎なのであるが(例えば物狂いは説話の中だけに出てくるものなのであるか、実際に旅に出るのに物狂いのふりをしたりするのか、狂女が流浪することが多くあったのか、一種の芸能民であったのか等々)、江戸時代には既に狂女のなりで旅をするということがそのままでは理解されなくなり、このような説明が残っているのだろうか。また笹の枝はお能では「狂い笹」といい、物狂いの必須アイテムだが、花子がその狂い笹を持っていたというのは、お能隅田川の影響だろうか。


梅若伝説にまつわる能楽、歌舞伎等の資料

金春流の謡本や型付けの本、役者絵(歌川国貞)、地方の芸能の展示があったりして中々面白かった。

もっと興味深かったのは、歌舞伎等での隅田川物の流行についてだ。元禄時代(1688年〜1703年)に隅田川を題材にした歌舞伎等が流行ったのだという。木母寺の梅若権現御縁起がちょうどこの時代に奉納されているのは、そいういった隅田川物の流行という流れがあったのかもしれない。近松門左衛門享保5年(1720年)に「雙生隅田川」という作品を竹本座で初演しているという。竹本座だから、こちらは文楽だ。他に、鶴屋南北が、文化10年(1814年)、市村座で五代目松本幸四郎、七代目市川團十郎、五代目岩井半四郎で「隅田川御所花染」という鏡山と清玄清姫を綯い交ぜにした(って、どーゆー話になるのだ!)、女清玄が出てくる作品を初演している。この「隅田川御所花染」は、美貌の誉れ高い八代目團十郎の襲名披露狂言の一つともなり、松若丸という役ともう一つの二役を團十郎が演じたようだ(女清玄は岩井半四郎)。さらには、法界坊お能隅田川の後日譚だとか。あの法界坊のどこが後日譚か!と思うが、確かに考えてみれば、外題は隅田川続俤(すみだがわごにちのおもかげ)なのだった。


という訳で、帰りは長命寺山本や桜餅を買って帰った。もちもちの皮がおいしいのだ。初めて本店に行ってみたけど、言問団子と共に、主要道路でなく隅田川河岸に面していて、昔の風情が思いやられるのだった。やっぱり隅田川に来るなら桜の時期がいいなあ。いつか桜の時期に、梅若塚を訪ねに来たいものだ。