博物館に初もうで  東京国立博物館 平常展

新年早々、東博中毒の私は東博に行って参りました。


新春イベント

獅子舞(東都葛西囃子睦会)

冒頭は、一人で演じる獅子舞。一通り獅子舞を舞うと、お次は、七福神の内、恵比寿様、大黒様、他1名が現れる。

三人の内、まずは烏帽子に仮衣を着けた恵比寿様が一くさり舞う。この恵比寿様、恵比寿様にしてはちょっとカッコいい。能面の「中将」の笑顔版、という感じの平安貴族風の面をつけていて、しかも装束は、お能の「融」の後シテみたいに、烏帽子に濃紺の狩衣。この公達のご趣味はフィッシングのようで、釣竿を使った舞を見せた後、釣をする。そして、鯛を吊り上げておきながら、鷹揚にも大黒様にあげてしまうのだ。さすが、平安貴族のお坊ちゃま風の神様。

それから、大黒様の舞。黒い頭巾にどちらかというと恵比寿様風の面、首にはシャンプーハットのようなヒラヒラを付けて、法被に袴、だったかな。法被の文様が、お能なら鬼が着けそうな紅地に金の山道飛雲文で、やたら恐そうだけど、何となく御利益も強力そうな雰囲気がしないでもない。右手に打出の小槌を持っていて、それを振ると、小判が出て来る。その小判を盛大に観客にばら撒いてくれて、その光景にバブル経済の往時を思い出した人々が涙したとかしなかったとか。私も飛んできた小判を一枚頂いちゃいました。初詣でお賽銭投げる前に神様に小判をもらっちゃって良かったんでしょうか?

大黒様の出番が終わると、今度は、誰だか良く分からないが狂言師風のなりをした男の舞。その面に敢えて銘を付けるとすれば、「あほの坂田」。火男に似てるのだが、口をとんがらがせてなくて、ふにゃーっと笑っているのだ。一くさり踊った後、休んでいる獅子舞の獅子に「三番叟」の種蒔きみたいにちょっかいを出しに行く。この時、「あほの坂田」が扇で顔を隠してその隙間から獅子を見ながら獅子に近づくのが面白い。

話がそれるが、この扇で顔を隠して隙間から見るという仕草について、網野善彦氏の「異形の王権」(平凡社ライブラリー)に面白いことが書いてある。曰く、手に持った扇で顔を隠すという仕草は、見る人を「人ならぬ存在」に自分を変え、それにより悪霊などが身につかないようにする意味があるのではないか、というのだ。鎌倉時代に成立した「一遍上人伝絵巻」等の絵巻を見ると、時衆の念仏の様子を見るとき、扇を顔に当てて扇の陰から見ている人たちがいる。この仕草は、室町以降、次第に行われなくなり、傾城屋を訪れる時など限定した状況でしか使われないようになったという。ということは、この扇で顔を隠して獅子に近づく舞の振り自体の由来は鎌倉時代ぐらいまでさかのぼることが出来るのではないだろうか。

横道が長くなったけど、そうやって獅子に近づいてちょっかいを出した「あほの坂田」は、たちまち獅子を怒らせてしまう。さらに獅子がもう一頭出てきて、相舞を踊って新春を寿ぐのだった。そして、観客の頭にお約束のカミカミをしていって終わり。


本館特別1室 新春特別展示 豊かな実りを祈る―美術のなかの牛とひと―

農夫図屏風(渡辺始興筆 江戸時代・18世紀)

牛と牛飼いの図。渡辺始興光琳、乾山兄弟の仕事を手伝っていたというのをどこかで読んだことがあった気がするが、この絵の解説では「始興光琳に学んだ」とはっきり書いてあった。実際、この始興の描いた牛飼いの少年の顔立ちは、筆遣いや形が、光琳の描く、あの何とも無邪気な可愛らしい顔立ちの絵と似ている。

松崎天神縁起絵巻(模本) 巻3、巻5(前田氏実模 大正6年(1917) 原本=鎌倉時代・応長元年(1311) )

日本で最初に出来た天満宮という防府天満宮(旧松崎天神)の絵巻。ひとつは、都に牛車で駆けつける天台宗座主で菅原道真の師でもある尊意の図。恐らく、菅原道真の怨念による祟りを封じるため、内裏から命を受けて都に急いでいるのだろう。

善光寺如来絵詞伝(釈卍空著 江戸時代・安政5年(1858) )

牛に巻いた布に引かれておばあさんが善光寺を目指しているところ。「牛にひかれて善光寺」という言い方があるとか。この布引伝説の発祥の地は善光寺ではなく、長野県小諸市の布引観音(天台宗布引山釈尊寺)というところらしいのだが、善光寺と布引観音との関係は、イマイチ分からず。話が逸れるが、この布引観音というのが、奈良時代の創建ながら、写真で見る限りものすごいところに建っている。私は高所恐怖症だから絶対にこんな場所には上れないけれど(上ったら多分降りれない)、絶景なんだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E5%BC%95%E8%A6%B3%E9%9F%B3


3室 仏教の美術 ―平安〜室町

大般若経 巻第二百五(南北朝時代・文和2年(1353))

後醍醐天皇の霊を弔うため、足利尊氏建仁寺に納経したという。それは納得。だって、後醍醐天皇なんて菅原道真や融大臣、崇徳院以上に執念深く化けて出そうな性格だし、出るなら先ずは足利尊氏が祟りのターゲットになるに決まってる。


3室 宮廷の美術 ―平安〜室町

清水寺縁起絵巻 巻下(土佐光信筆 室町時代・永正14年(1517) )

先ず最初は、僧が山の中で蛇に絡まれ、その後、蛇が僧から離れる絵。それから、火災があった時に、ご本尊が古松の上に移動し、奇跡的に助かったという図。お正月、日本絵巻大成18「石山寺縁起絵巻」(中央公論社)を眺めたのだけど、こちらにも同じエピソードがあった。こんなことは、さもありなんと思う。火災になったら、まずは誰もがご本尊を救おうとするだろうし、ご本尊を救った後も他の品々を避難するために、一時的にどこかに置いておく人があっても全然不思議ではない。それから合戦の様子を示した絵。そういえば、お能の「田村」は、典拠は「清水寺縁起絵巻」だ。田村の詞章の中には、後シテの坂上田村麻呂が安濃(あの)の松原で数千騎の敵勢に遭ったが、清水寺の本尊の千手観音に救われた、というエピソードについて語られるようだが、そのあたりの話だろうか。確か、絵巻の詞書にも千手観音云々と書いてあった気がする…と思ったのだが、その詞書には、「盛久」という名前が書いてあったので、恐らく、能の盛久の話(とらわれて首を打たれることになり鎌倉に連れて行かれたが、清水寺の観音様の夢のお告げどおり、首を打つための刃が折れ、目出度く救われて頼朝の前で舞を舞ったという話)だろう。


8室 書画の展開 ―安土桃山・江戸

雪中老松図(円山応挙筆 江戸時代・18世紀)

今、三井記念美術館で公開中の国宝「雪松図」と同じ技法。こちらは、紙幅が狭いし、構図は松の大木の幹が中心。三井美術館の方が国宝指定を受けているということは、やっぱり、あのたっぷりとした松の枝ぶりと冷え冷えとした空気感があってこそ、ということか。

洛中洛外図巻(住吉具慶筆 江戸時代・17世紀)

これがなかなか面白かった。特に商人の様子が面白い。
例えば、こちらの絵。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=00&col_id=A69&img_id=C0013556&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=&Q5=&F1=&F2=
左上には、扇屋があり、店の奥には扇の最終工程を行っている様子が見える。扇の製作は二十工程ぐらいあり、分業制となっていたというが、ここでは、扇の絵を検分している人、折り目を入れる作業を行っている人等がいる。
それから、左下には、着物の縫製の様子が描かれている。日本絵巻大成「石山寺縁起絵巻」の附録の月報「絵巻にみる生活誌」で、宮本常一が、石山寺絵巻の中に反物を小刀で切っている様子が描かれていることを指摘しているが、ここでもやはり、反物を小刀で裁断している様子が描かれている。

詠草(北村季吟筆 江戸時代・17世紀 )

北村季吟は、俳諧宗匠で、古典の注釈を多く書いた人。源氏物語湖月抄を著した人だ。芭蕉はその門人。正確には、芭蕉が若き日に使えた主君、藤堂良忠(蝉吟)が季吟の門人で、芭蕉は良忠の俳諧の御相手をしていたという。良忠は若くして亡くなったため、芭蕉は伊賀から京都に出ていき、そこで季吟とも交流があったのだろうか。元禄4年(1644年)、芭蕉47才の時に執筆された「嵯峨日記」の冒頭を読むと、嵯峨の庵、落柿舎に持ち込んだ書物として、「白氏集、本朝一人一首、世綴物語(よつぎものがたり、栄花物語のこと)、源氏物語土佐日記、松葉集(松葉名所和歌集、諸国の名所の和歌をいろは順に掲載したもの)」とある。この源氏物語は湖月抄なのだろう。


9室 特集陳列 厚板

厚板 金紅片身替詩歌模様(重文、奈良金春座伝来 江戸時代・17世紀 )

なんと散らし文字の刺繍がされた厚板。歌舞伎の紙衣のようだが、さすが能装束だけあって上品。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B06&processId=00&event_id=6071&event_idx=1&dispdate=2009/01/03

厚板 茶淡茶緑浅葱段牡丹唐草模様(奈良金春座伝来 江戸時代・18世紀)

展示された厚板の名前は紫で始まっていた気がするけど。。。素晴らしい厚板。 紫色?、淡茶色、緑色、浅黄色、白色のグラデーションが段替りになっていて、しかも、一列づつどんどんずれているのだ。今回の展示の中では私の一番のお気に入り。

厚板唐織 浅葱地石畳鉄線唐草模様(江戸時代・18世紀)

山口能装束研究所の山口氏は、能装束は男物は、基本的にペルシャ、インドなどの舶来の文様を用い、女物は和の文様を使うといっていた。思い出してみると、確かに厚板は舶来の文様ばかり。ところが、この厚板は和の文様(鉄線唐草)がプラスされていて、それだけでぐっと女性っぽさ(あるいは中性的、貴族的な魅力)が出るのだ。非常に興味深いことだ。


10室 浮世絵と衣装 ―江戸  浮世絵

三方を持つ娘(鳥居清満筆 江戸時代・18世紀)

どうもこの娘の持っている三方は正月のお飾りのようなのだが、松に伊勢海老、橙色の果物などが飾ってある。他にももう一つ同じ三方のお飾りが描かれている浮世絵があって、興味深い。それから、他の絵だけど、門松の形が今と違うのが面白かった。今は竹を斜めに切った切り口を見せるけれども、この時代の絵では、特に途中で切ったりせず、そのまま、枝葉を茂らせているのだ。門松自体は、平安時代の小松引きから来ているというから、古いルーツを持っているけれども、門松そのもののフォルムが今のようになったのは、案外、最近なのかも。一方で、羽根突きなんかは、平安時代からあるようだし、調べてみたら面白いだろうなあ。

北楼及び演劇図巻(菱川師宣筆 江戸時代・17世紀)

吉田屋の伊左衛門みたいな人が何人もいる。女性が四、五人と同じく女性の三味線引きがいるので、三味線を伴奏にして歌舞伎踊りをするのだろうか。女歌舞伎なら、歌舞伎の初期(女歌舞伎が禁止となる1629年以前)の絵ということになるのだろうか。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=02&col_id=A59&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=&Q5=&F1=&F2=


13室 刀剣

脇差(越前康継 江戸時代・17世紀)

刀は興味が無いので大概ここは見ないのだけど、たまたまみたところ、この解説に、刀職人の康継は「下坂」と呼ばれた、と書いてあった。伊勢音頭恋寝刃に「青江下坂」という妖刀が出てくるが、この名前は「下坂」からの連想なんだということが初めて分かった。更に辞書を見てみると、下坂市之丞康継が徳川家の御用鍛冶職となり葵の御紋を入れることを許されたので一名、「葵下坂」と呼ばれたということだ。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E8%91%B5&dtype=0&stype=0&dname=0na&pagenum=1&index=00140800072200

ああ、面白い。これだから、東博通いはやめられまへんな!