博物館に初もうで(続) 上野寛永寺


昨日のポストの続き。東博の新春企画、博物館に初もうでの関連イベントで上野寛永寺の根本中堂特別公開をしているというので、行って来ました。


早速、初詣を兼ねてお参りしてから、根本中堂の中に入ってみる。中央の厨子の中には、小さな仏像が安置されていたけれども、あれがご本尊の薬師如来だったのだろうか?ふっくらとまあるいあごの辺りと胸元と法衣のひだ位しか見えなかったが、かなり古そうに見えた。両脇には、十二神将像が都合六体づつ立っていたが、それらに加えて、似ているけれどもちょっとお腹が太めで顔立ちも若干違う彫像が混じっている。説明書によれば日光、月光らしいが。。。

仏像にあんまり興味がないので、ポーズを見ただけではどれがどれだか全く分からなかったのだが、Wikipediaによれば「12体の持物、ポーズ等は必ずしも統一されたものでなく、図像的特色のみから各像を区別することはほとんど不可能である」とあり、分からなくて当然なんだ、とちょっとほっとする。


で、私の関心事は根本中堂の中を見たいというのもあったのだけど、もうひとつ、酒井抱一が建てたという乾山の墓碑を見つけたいというのがあった。という訳で、早速境内に出てみると、探すまでも無く、すぐに乾山の墓碑は見つかった。


意外に新しい感じがしたので不思議に思ったら、実は抱一の立てた墓碑は、明治45年に寛永寺敷地一部が国鉄の用地となり、巣鴨の善養寺に移転することになったという。それで、昭和に入って乾山の墓碑がなくなったことを惜しんだ有志が建立したのが今の墓碑とか。

先日見た抱一の墓碑は変わったデザインだったのに乾山の墓碑はあっさりとごく普通。何故だ?


もうひとつ興味深かったのは、ここで見て初めて知った、了翁道覚(りょうおうどうかく)禅師(1630年〜1707年)の像。隠元禅師の黄檗宗に帰依した禅師であったが、ある日、夢枕に立った僧が霊薬の製法を教えてくれ、その製法に基づいて作った「錦袋円」という薬を上野不忍池のほとりに構えた店で売ると、売れに売れたという(今の製薬会社の研究所の人にはうらやましい限りだろう)。その後、慈善事業にまい進し、その業績を顕彰して像が建ったという。


そういえば、乾山も黄檗宗の独照性円(どくしょうしょうえん)に参禅したのだった。

了翁と乾山の二人に共通することは、禅の修業をしたにもかかわらず、了翁は薬、乾山は焼き物の商売にもまい進したことだ。商いでもうけるというのは、一見、禅の教えと相容れない行為に思えるが、実は、禅の教えに背かないものらしい。この了翁と乾山の碑を見て、以前に観た出光美術館の「乾山の芸術と光琳」展の図録にあった論文「乾山と禅―焼物商売をめぐって―」(西川秀敏師、法善寺住職)に、次のような文章があったのを思い出した。

宗教というものは、人間に一つの生き方を教え、人間いかに生くべきかに明確な解答を与えるものでなければならない。特に禅という宗教は、二元の対立を超えて、二元の対立に執着せず、しかもこの二元の対立の現実を生きていけと教える。

私たちの生きている現実の世界は、まさに二元的対立の世界と言っていい。苦と楽、善と悪、有と無、自と他、生と死、というように、すべてが二元的対立である。善はこの二元的対立に執着することを嫌い、この二元的対立を超えることを目指す。禅の修業が、その基礎において「自己を尽くせ、自己を無にせよ」と強調するのは、そのためである。

そして、禅の修業は、すべての行為が「見性」(真実の自己にめざめること)をめざして行われる。だから、禅には雑務というものがない。禅では一切が、食事も掃除も、何もかも、朝起きてから夜寝るまで、すべてが修行である。中国の南泉禅師は「平常心是れ道」といわれた。それは、禅画日常の生活の中にこそ、もっとも深い宗教的な神秘を見るからである。こうしてすべての行為に、外に向きがちな心を打ちへ向かわせ、自己へ自己へと工夫するところに悟り(見性)への契機がある。心をここにおけば、生活の場すべてが「現成公案(げんじょうこうあん)」(悟りの契機を直指する現実の問題)となるのである。

こうやって書き写してみると、新年早々、良い言葉に引き合わせてもらえたようだ。今年の抱負は「現成公案」ということか。そして、それは「別無工夫」ってことだ。