東京国立博物館 平常展 東洋館

前回、東洋館を見る暇がなかったので、東洋館を見に来ました。しかし、名物裂を観るのを忘れてしまった。ショック。


1階 西?東南?南アジア美術?考古、エジプト美術

縫い合わせ縞地ペイズリー丸模様刺繍(イラン 19世紀)

能楽堂のお幕のように縦縞で、左から、緑、赤、水色、黄、茶、橙という色合いの布が縫い合わされたもの。ゾロアスター教に関係すると書いてあったけど、この色合わせは一体何を意味するのだろう?


第8室 中国の絵画  新春特集陳列「吉祥―歳寒三友」

寒い季節にも負けない松竹梅を中国では「歳寒三友」といい、また竹、梅、蘭、菊を四君子というそうだ。
面白かったのは、水仙と梅、水仙と霊芝、蘭と岩とか、日本画では見られない組み合わせの絵があること。
また、画賛にも目覚めてしまった。画賛を読むことで、絵をもっと深く楽しめることを知ってしまったのだ。

梅花水仙図(律天如筆 明時代?正統6年(1441) )

日本ではあまり無い、梅と水仙の組み合わせ。

墨竹図(呉宏筆 清時代?17世紀)

この水墨画を見たら、画賛にちょっと目覚めてしまった。絵だけを観ると、竹が靡いていて何か厳しい雰囲気は伝わってくるものの、どういう状況かはちょっと分からなかったのだけど、画賛を読むと、竹が雨に打たれている図だということが分かる。漢字というのは、表意文字で一文字当たりの情報量が多いので、文字が何個か読めるだけで、結構、情報が得られる。そのお陰で、絵を見ただけでは気がつかなかった世界への想像が広がって、ますます面白いのだ。

http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?&pageId=E16&processId=01&col_id=TA325&img_id=C0032446&ref=&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=&Q5=&F1=&F2=

鹿鶴図屏風(沈銓筆 清時代?乾隆4年(1739) )

とても興味深い。背景の松や岩は中国の伝統的な画法で描かれているのだが、鹿と鶴は、西洋画の立体感を出す筆致で描かれている(鶴に関しては鹿ほど成功していないけど)。乾隆4年という年号を見て、新田次郎の「蒼穹の昴」に出てくる郎世寧(ジュゼッペ?カスティリオーネ)を思い出してしまった。あの小説を読んでしまうと、こんな絵を見たら、乾隆帝や郎世寧のことを思い出して、ジーンとしてしまうのだ。

猿猴図(唐絵手鑑「筆耕園」の内) (重文、筆者不詳 明時代?15〜16世紀 )

座り込んでいる馬の上にだらんと寝ている手長猿がカワイすぎる。誰かの絵に似てる気はするけど。。名前を思い出せない。

花卉図 趙之謙筆 清時代?同治9年(1870)

桃の絵。これがおめでたいのは、お能西王母でよーく分かった。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=TA239

瓢箪図(花卉図冊の内) (斉こう筆 清〜中華民国時代?20世紀)

瓢箪は日本でも吉祥文様とされているけど、元は中国だったのだ。

古墨「百老図」(呉申伯製 明時代?16世紀 )

墨と硯という時の「墨」で、ちょうど大きなロールケーキのスライスみたいな形をしていて、その断面に当たるところに沢山の文人画の彫刻が施してある。実は、下のほうは少し使って磨り減ったあとがある。

思うに、きっと、この墨の持ち主は、書が上手く、謙虚で皆から尊敬される古老で、この素晴らしい墨は、誕生日か何かのお祝いとして、とある高貴な若い弟子から贈られたのだ。最初、この古老は、有り難がって使わないで飾っておいたのだけど、贈り主の若い弟子は「使ってもらうためにお贈りしたのですよ」と何度も主張する。古老は、しかたなく墨を下ろすことにした。そして、しばらくその素晴らしい墨を使ってはみたのだが、いよいよ文人画の彫刻に掛かりそうなところまで使って、「やっぱりこれは勿体無くて使えません。あなたとの友情の証として子々孫々まで伝えましょう」と言って、また飾ることにしたのだ…というのは、もちろん私の妄想。

第10室 北東アジアの彫刻  朝鮮の彫刻

私は仏像にあんまり興味が無いために、仏像を見ても何が何だかさっぱり分からない。しかし、今回、ここで小さな仏像の立像をいくつか見て、"如来=パンチパーマ"、ということは学習したように思う。頭にお団子を作ってるとか、胸元のはだけ具合とか、ポーズとか、立ってるか座ってるかとかは、あまり関係ないらしい。そうだ、他にはアフロの仏像は「五劫思惟阿弥陀如来」という名前だということと、薬品の壷を持っている場合は薬師如来ということは知っている。

展示されていたもののなかで、ひとつだけ、パンチだから如来かと思ったが、違う名前が付いているものがあった。「誕生釈迦仏立像(朝鮮 三国時代?7世紀)」というやつだ。他の如来と顕著に違う部分は、手のポーズがドーモくんなところのだが、ドーモだから誕生なのか?謎である。

西域の美術

テラコッタ小像及破片(中国?ヨトカン 1〜5世紀)

子供が粘土遊びしたものを焼いてみました、という感じ。ただし、三猿があったのには感動した。三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)は少なくとも5世紀ぐらいには既に中国にはあったのだ。Wikipediaによれば、古代エジプトでも既に三匹の猿というモチーフがあるという。世界中にあるというから、すごい。私の父は海外で三猿を見つけると買ってくるのが趣味で、フランスのモン?サンミッシェルやロンドン等欧州の色んなお土産屋さんで購入した三猿を持ってる。また、前にアメリカ人に三猿について話したところ、英語にも三猿(three monkeys)という言い方があると言っていた。こちらのURLを見ると、世界各地に三猿があるらしい。今のところ、五大陸のうち、南アメリカ大陸の三猿だけは調査されていないみたいだ。

http://www.kcn-net.org/koshin/sanen/index.html


ところで、帰りに、寛永寺輪王殿に寄ってみようかと思ったのだが…どうも、間違って両大師の方に行ってしまったみたいだ。うーむ、輪王殿はもう一つ先だったのだ。

仕方ないので、両大師で興味深かったことを書くと、御車返しの桜という桜があったこと。一枝に一重と八重が咲くといい、天皇が三度も見返したことから「御車返しの桜」と呼ばれ、京都から移植された、と説明書きがあった。何だか聞いたことがあるなと思って、家に帰って調べてみると、地主権現で嵯峨天皇が見返したものと、常照皇寺で後水尾天皇が見返したものがあるらしい。どちらから移植したのだろう?

地主権現の方は、清水寺の鎮守社で、見返した天皇は、嵯峨天皇、つまり源融のパパだし、平安時代の初めのことだし、何だか本家本元という気がする。けれど、常照皇寺は、北朝光厳法皇が隠遁するために作ったお寺で、皇族との関係が深いという。さらに見返したという後水尾天皇は、寛永寺門跡の寛隆法親王(乾山に京の都の鶯を上野に放すよう命じた)、公寛法親王(江戸に下向する際、乾山をも江戸に連れて行った)の祖父に当たる。また、後水尾天皇中宮東福門院は乾山の家である雁金屋の大パトロンだった。それに、常照皇寺では、御車返しの桜は、一重と八重で「九重(=内裏)桜」と呼ばれているそうだ。

そう考えると、この両大師の桜は常照皇寺から来たのかな、と思ってしまうのである。(2/9追記。もう一度見に行ったらしっかり「後水尾天皇が振り返った」とかいてありました。最初の時、メモっとけば良かった。)


それにしても、こんなところでも、天皇家の威信を賭けて京の貴族文化を持ち込もうとした心情に、武家と公家の静かな戦いの痕跡を見る思いがする。