清水寺と地主権現(2)

で、やっと清水寺に行き着いた。

清水寺で私が見たかったのは、何といっても、西門(さいもん)。というのも、狂言では、清水寺の西門の一の階(きざはし)というのは、男女の出会いのメッカということになっているから。私の乏しい鑑賞歴でも、「因幡堂」、「清水座頭」、「釣針」(歌舞伎の釣女)、「伊文字」に出てきた。

参拝順路としては仁王門をくぐって境内に入ることになっているので、とりあえず、仁王門をくぐる。


すると、すぐ隣に西門があった。「一の階」などと断るくらいだから、せめて浅草寺の雷門ぐらいの大きさはあるものと勝手に思っていたが、思ったより小さくて地味だった。


しかし、大きさは置いておくとしても、これは裏側から見ているのであったことを帰ってから気がついた。表から見るともっと派手なのかもしれぬ。なんだか、しょっぱなから間抜けだなあ。とにかく、今の西門は江戸時代初期のものらしいが、室町時代には、善男善女がこの門の辺りに集まっていた訳だ。


西門の脇を通ると、経堂みたいな感じの田村堂がある。坂上田村麻呂が祀られているらしい。このあたりまでの建築物は、白壁に朱の柱でまるで神社っぽい。


さらに行くと、地主神社(じしゅじんじゃ)があるので、ちょっと寄り道して、見てみた。


これもまた、見てみたかったところ。と言うのも、地主桜(一枝に一重と八重の花が咲くという桜)があるから。


この桜は、「御車返しの桜」と呼ばれていて、嵯峨天皇地主神社に訪れた折、あまりの美しさに二度、三度と車を返したところから名づけられたという。寺社のホームページによれば、その行幸は811年のことだそうだ。この年の前年、嵯峨天皇平安京平城天皇平城京の二所朝廷が対立する事態となり、嵯峨天皇の命で坂上田村麻呂が出兵している(薬子の変)。田村麻呂が建立した清水寺のある地主神社へ、翌年、行幸したということは、政変を鎮圧した田村麻呂への感謝の意を込めた行幸だったのかもしれない。ちなみに、田村麻呂は、同じ811年の6月17日に病に倒れ亡くなってしまった。嵯峨天皇の勝利は、紙一重の幸運によるものだったと言わざるを得ない。


今ある地主桜は若木のようだ。何代目になるのだろう。実は、今の地主神社は急な斜面に立っていて、どちらから帰るにしても、地主桜を見るために車を返そうとすれば、たちまち「獅子の子落とし」状態になることは間違いない。嵯峨天皇の頃は、もう少し境内の感じも違っていたのだろうか。いやいや、ひょっとすると、桜の木が御神体という位だから、参道からも見える程の見事な桜の大木があったのかもしれない。あるいは嵯峨天皇は、桜が満開でありながら、はらはらと絶え間なく散る様子に、平安京の存亡の危機を乗り越えた安堵と、クーデター平定の立役者だった田村麻呂は病を得た悲劇とを重ね合わせ、感無量となって何度も振り返ったのであろうか。


地主神社の境内では、催し物の練習なのか、雅楽の「延喜楽」が流れていて、ふっと、古の時代に戻った気がした。


そしてまた清水寺の境内に戻ったのだが、続きは、また後日。