清水寺と地主権現(3)


清水寺に戻って、話の続きを。


もし仏像のことをもう少し分かっていれば、阿弥陀堂奥の院の仏像について想いを馳せることが出来るのだが、残念ながら、私の乏しい知識では何も語ることはない。阿弥陀堂など拝観したにはしたのだが、堂内は暗くて阿弥陀仏が安置されているのかどうかも分からなかった。むしろ、阿弥陀堂の東面に伝狩野元信筆(永徳の祖父)の素晴らしい絵馬を見つけて、見入ってしまった。
http://www.kiyomizudera.or.jp/jihou-40.html


一方、阿弥陀堂の前の所謂「清水の舞台」に立って眺める景観は素晴らしかった。白洲正子の本を読むと、お能の「道行」(主にワキの旅の僧が物語の舞台に着くまでに通る名所が謡われる)や「名所教え」(主にワキが唐突にジモティであるシテにこの辺りの名所を教えてと請い、シテがそれに応えて名所を教える)の詞章は、下手なガイドブックよりずっと親切、と彼女は常々書いている。清水寺においても確かに彼女の言う通りだった。


ちなみに清水寺縁起を典拠とする「田村」では名所教えはどうなっているかというと、

ワキ詞「見え渡りたるは皆名所にてぞ候ふらん。御教へ候へ。
シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
ワキ「まづ南に当つて塔婆の見えて候ふは。いかなる所にて候ふぞ。
シテ「あれこそ歌の中山清閑寺。今熊野まで見えて候へ。
ワキ「また北に当つて入相の聞え候ふはいかなる御寺にて候ふぞ。シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺。や。御覧候へ音羽の山の嶺よりも出でたる月の輝きて。この地主の桜に映る景色。

半魚文庫「田村」より

となっている。


歌の中山(清閑寺)と今熊野の山はちゃんと見えた。この一枚目の写真は判り難いけど、阿弥陀堂から見た歌の中山。この右側がずっと開けていて京都の町並みの向こうに今熊野が見える。

それから奥の院の裏手にそびえる音羽山(清水山)も、もちろんよく見えた。ここから月が昇る様子はさぞかし風雅なことだろう。

鷲尾寺というお寺が見えることは、帰ってから詞章を読んで初めて知ったけど、仁王門や地主神社の辺りは北から西にかけての展望が広がっていたので、きっと見えるに違いない。


他にも、「熊野」は、平宗盛が病気の母を見舞うために暇乞いをする熊野を無理矢理清水寺での花見に連れて行く話だが、こちらの方は詞章全編が清水寺及びその近辺の名所尽くし。そういう観点から詞章を読むのも楽しいし、お能の詞章を参考にしながら(理想的には小声で吟じながら)観光をするのは、もっと楽しいかも。そして、観光の後、そのお能を観たら、ますます楽しい時間を過ごせそうだ。


ああ、なるほど。ここまで書いて気が付いた。お能に出て来る場所に京都や近畿地方の名所が圧倒的に多いのは、室町時代、京都に幕府があったことも関係しているに違いない。為政者や公家のようなパトロンにとって親しみのある場所や物語、和歌が盛り込まれた曲なら新しい曲でも彼らにとって楽しめる曲となったことだろう。そして、そのような曲を沢山作ることは、今後の庇護を維持、拡大していく上で、能楽師一座にとって、とても重要だったのだ。…と、こんなことは書くまでもなく、誰でも気付いていることか。


実は、まだ書きたいことがあるので、この話、続きます。