清水寺と地主権現(4)

もうひとつ、清水寺&地主権現の見物で、どうしても書きたかったことの一つ目は、乾山と仁清の碑のこと。
http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi020.html

これは、奥の院から音羽滝に行く途中にある子安塔という塔に行く階段の入口にある。見物していた時は、子安塔への階段の入口にあるので、てっきり子安塔関連の碑かと思っていた。

清水寺に仁清と乾山の碑があるというのはとても興味深い。

というのも、仁清は京焼の基礎を作った人だし、乾山は、当時、衰退しかかっていた京焼の中興の祖とも言えるからだ。乾山の頃は、ちょうど伊万里が大ブームとなった頃で、京焼は危機に立たされていた。出光美術館の「乾山の芸術と光琳」の図録にあった荒川正明師の論考によれば、その頃、前田家が綱吉の母、桂昌院へ献上するために香炉十三個を仁清の御室窯に注文し、元禄八年(1695年)に届いたものを、不出来であったため返却し、伊万里に変更した、ということがあったということが、前田貞親覚書に見えるという。これは仁清が亡くなって(1693年)二年後の話で、その後、1696年、光琳は大名貸しが焦げ付き、乾山に借金をし、1697年、父が亡くなり、1699年、乾山は鳴滝泉谷に開窯する許可を願い出、許可される。その後は、公家に愛され、二条丁子屋町に移ると京の町衆に愛され、正徳五年(1715年)、近松の「生玉心中」に「錦手乾山音羽焼」と書かれる程、有名になったとか(この話は乾山ファンの間では有名だけど、文楽ファンにはあまり知られていない気がする)。という訳で、この碑が清水寺に建っているのだろう。


さて、この碑が建ったのは大正九年。この時期、国内のみならず海外でも京焼がブームになっていたという。なるほど、それで碑を建てようなんて運動になったのかも。


そして、最後に音羽滝。ここは、最後の最後にかなりのショックでした。これはもう、滝とは呼べないのでは。和歌に出てくる音羽滝こそを幻の音羽滝と思うことにする。藤原公任の「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」の歌を、音羽滝に捧げたい!滝自体は絶えてはいないけど!!


という訳で、清水寺シリーズは終わり。実は、この後、源融のおうちにバーチャル訪問?したのだが、その話を書く暇はあるのか…?