源融のお宅バーチャル訪問記(1)

1月に京都の清水寺に行った帰り、満員バスに乗る気分にならなかったので、五条の駅まで歩くことにした。それで、ぷらぷらと地図を見ながら五条橋を渡って五条通を歩いていると、ふっと思いついた。そうだ、源融の六条河原院(つまり光源氏の六条院のモデル地)の跡って確か、この辺りが北端だったのでは…?


急いでケータイで検索して探してみたが、見たい資料はPDFでケータイからは閲覧できず。しかし、おぼろ気ながら富小路通は河原院をつきっていたことや、本塩竃町という町が六条院のあった場所にあったはずだという記憶があったので、とりあえず、ちょっと引き返して富小路通に入ってみた。実はこのとき、五条橋の辺りまで引き返して鴨川に沿って少し歩けば、河原院跡という碑を見れたようだが、まあ、行き当たりばったりの旅なので、仕方が無い。


富小路通に入るところにある本覚寺というお寺の説明版を見ると、早速、ここが融大臣の六畳河原院(ひ、ひどい漢字変換…)の跡地であることが記載されており、うれしくなる。しかも、このお寺には源融像があるとか。それで、早速、境内に入ってみたのだが、ちょうど同じタイミングで入った人が本堂と思しきところの入り口にある床几のど真ん中に腰を下ろし、煙草を吸い始めた。境内の石像等を見るふりをしてその人が立ち退くのを少し待ってみたが、なかなか動き出しそうもない上に、こちらの方もちらちらみて様子を伺っていらっしゃる。小心者の私は、まあ、場所は分かったから次に来たときに見てみようと思って、立ち去ることにした。

あとでWebで調べてみると、融大臣を拝むには、事前にアポが必要とか。さすがに左大臣ともなると、アポ無しでは会ってくれないようです。
http://fm-kyoto.jp/topics/kyonokyo/2008/03/06/011193.shtml

ちなみに一つ目の写真は、本覚寺を出て富小路通を南に歩く(下ルっていうんでしょうか?)道の風景。


さらに、富小路通をそぞろ歩いていると、道の両側にお寺があり、まるでお寺銀座。河原院跡は何度も火災があり1000年頃には荒廃していたそうなので、その後、お寺が建つことになったのでしょうか。

そうこうしている内に、数分で河原院跡地と思しき場所は通りすぎてしまう。河原院のあった場所は、南は六条大路、北は六条坊門小路、東は東京極大路、西は萬里小路に囲まれた4町とかいう話で、広いことは広いのだけど、縦横250m四方なので、すぐ歩ききってしまう。



で、地図を確認してみると河原院跡地と言われていたこともある渉成園(今は河原院はもう少し北の五条通りを北端とした富小路通周辺にあったことが分かっている)が近いので、せっかくだから行ってみることにした。河原院があった現地は歩いたので、あとは頭の中で河原院を模した庭園の風景を合成すれば、バーチャルお宅訪問じゃ。
http://www.tomo-net.or.jp/guide/syoseien.html

入園料500円払って入ってみたが、花の季節ではないので、数人の観光客しかいなかった。でも、私の知りたいことは、

  1. お能の「融」の名所教えに出てくる名所が見えるか
  2. 塩竃はあるのか

の2点だったので、問題なし!


まず、1.の「融」に出てくる名所だが、謡では、ワキの僧が河原院跡に行くと老人がいるので、名所を教えてくれと請う。そのときの会話はこんな感じだ。

ワキ詞「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。
シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
ワキ「先あれに見えたるは音羽山候ふか。
シテ「さん候あれこそ音羽山候ふよ。
ワキ「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程近うこそ候ふらめ。
シテ「仰の如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。此辺よりは見えぬなり。
ワキ「さて/\音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ詞「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺今熊野とはあれぞかし。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ詞「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ詞「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森
ワキ「緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。
ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草よ。
地「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほ/\問はせ給へや。
地「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋も早。/\。半更け行く松の尾の嵐山も見えたり

半漁文庫「融」より

ここまで長々と引用したが、これらが見えたかというと、ちっとも見えなかった。


しかし、しかし!応仁の乱の頃以降の京の都というのは、五条以降は荒廃していたという。その後、京の町の区画を再整備したのは秀吉である。この五条から南の地域について考えて見ると、例えば、西本願寺が今の場所に移ったのが、秀吉が土地を寄進した1591年(天正19年)、東本願寺が出来たのは、徳川家康が土地を寄進したことによってだ。

ということは、このあたりは一面、野原やら田園風景だった可能性もあり、この謡曲ができた当時の室町時代は、ひょっとするとこの名所教え通りの風景だったのかもしれない。今でも通りに出れば大抵、道の奥には山並が見えるから、もし建物さえなければ、結構、京の都を取り巻くの山並みは見えそうな気がしないでもないし、「融」の詞章も「逢坂の山は音羽の峯に隠れて此辺よりは見えぬなり」とか、妙に詳しいし。第一、見えないのに名所教えてなんて詞章に入れてしまったら、作者(とゆーかリメイクをした人)の世阿弥は舞う度に観客からそれらの名所が見えないことを指摘されて、頭を抱えるはめになったことだろう。こう考えると、名所教えに近い感じで見えたという状況証拠はあるようにもみえるが、ま、ここは、分からないままということにしておくべきか。


というわけで、1つめの疑問は、解決はしなかった。2つ目の塩竃については、渉成園の庭園に塩竃の様子を模したというものがあったのだけど、それを見て、考え込んでしまった。その話は長くなるので、別の記事にしようと思います。