源融のお宅バーチャル訪問記(2)


源融の六条河原院を模したという渉成園のつづき。庭園を散歩していると、池の浮島にある縮遠亭(しゅくえんてい)という茶室の近くに源融の塩釜を模した手水鉢があると書いてあったので、見にいってみると、こんなものがあった。

高さは60cm〜70cmぐらいだろうか。ええ?こんな小さいものが?!と思ってショックを受けていると、さらに追い討ちをかけるものがあった。

これは、塩釜の跡を模した井戸の跡だという。どうみても、直径は1メートルもない。果たして、融大臣はこんな小さな塩竃のために、人足を一日三千人も使ったのだろうか?


わけがわからなくなってしまったので、もう一度、最初から考えてみることにした。


まず、平安時代の製塩法について整理しておくと、藻塩法と呼ばれる、海に生える藻ごと焼いて塩を取る方法や、一歩進んで、入浜式塩田と呼ばれる、海水を浅瀬で濃縮させた「かん水」を炊いて蒸発させる方法があったという。

どちらにしても、塩を焼く時は、土器を使っていたらしい。なんとなく鉄器の釜を想像してしまうが、このころは土器が主流だったそうだ。宮本常一の「塩の道」(講談社学術文庫)によれば、塩釜市の辺りで残っている鉄器は鎌倉時代以降のものだという。というわけで、融大臣は最新製法で塩を作るのが目的ではなく千賀の塩竃の風景を映すことに主眼があったのだから、きっと土器を使ったのではないかと思う。
たばこと塩の博物館のWebサイト
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/japan/mosioyaki.html


さらに、興味深い記事を見つけた。
http://www.asahi-net.or.jp/~wr5t-nmr/pub/thesis/shio.html
実際には、融大臣は塩竈は作ったかもしれないが、海水を汲んではいないのではないか、というのだ。上記の記事によれば、平安時代の文書には海から塩水を汲んできたという記事は見えないのであるが、いくつかの段階を経て、海水を汲んでくることになったという伝説が出来たという。

最初に海水を汲んできて塩を焼くという記事が見えるのは、宇治拾遺物語で、「河原の院に融公の霊住む事[巻一二 一五]」に

今は昔、河原の院は融の左大臣の家なり。陸奥(みちのく)の塩竃(しおがま)の形(かた)を作りて、潮(うしほ)を汲み寄せて、監を焼かせなど、さまざまのをかしき事を盡して、住み給ひける。

とあるものだという。宇治拾遺物語の成立は1213年(建保元年)から1221年(承久三年)頃だというので、融大臣(弘仁13年(822年) - 寛平7年8月25日(895年9月21日))が亡くなってから300年以上後の記事ということになる。300年後に初めて海水を汲んでくるという話が出てくるというのは、何とも伝説化された話っぽい。


そして、海水を汲み入れるに頻度や量については諸説あり、「毎月」、「毎日」、「三十石」、「三千人」の人足等々の表現があるが、これは江戸時代頃に出てきたものらしい。これらの表現は、冷静に考えてみるとどうも大げさすぎるように思える。

というのも、例えば、三十石の海水を運んでくるとする。これは、三十石舟という水運の舟があるからそこからの連想だと思うが、三十石とは5.4トンである(一石=180リットル)。これを例えば2リットル程度入る製塩土器に入れて炊くとすると2700個必要になる。これらの土器を防火対策や海水の運搬等のための動線、スペースをとりながら並べるだけでも場所もものすごくとるし、海水を入れて炊いて蒸発させたあと塩を回収していく作業を1日サイクルでまわしていくのは素人考えでも大変そうだ。

また、海水を炊くためには薪も必要だが、水を蒸発させるのに必要なKcalやそのために必要な薪の重量を考えててみると、まったくの概算だが、1つの製塩土器につき最低でも1kgは薪が必要とすると、2.7トンの薪が必要になる。これらをどこから調達してきてどこにおいておくか、という問題もある。

作業の規模をざっと見積もってみると、例えば海水を炊き続け塩を回収する作業で1人30個の製塩土器を担当するにしても、900人は必要ということになり、その他、海水を運んでくる水夫や河原院まで牛車等で運ぶ人夫、薪をどこかの山から運搬してきたりする樵夫、薪を割る人々等々考えると三千人という人数も決して大げさではない。その人件費や原料コスト、スペースの用意等等どうするのじゃ!ということになる――しがない会社員としては。

さらに、だ。そこまでして作った塩は、海水のまま運んでいるなら塩分3%だから164Kg、もし例えば塩分10%ぐらいの「かん水」なら540kg。この作った塩はどうするのだ、ということになる。日本人一人の一日当たりの塩の摂取量は1日10gが推奨値ということなので、164Kgなら1万4千人分、540Kgなら5万4千人分。これを毎日作ったら、1年間で197トン。延べ人数にして1970万人分。…ありえない。


というわけで、私の結論としては、融大臣は塩竃を模して藻塩焼きの風景を再現したかもしれないけど、マジで海水を汲んできて三千人の人足を使ったりしたりはしなかったんじゃないのかなー、というものです。だって、ここまでやったら、もう風流とか通り越してるし。

でも、たまに宴の余興として数十樽ぐらいの海水を舟で運搬してきて藻塩を焼いたりいたり、といったことなら、したかもしれない。

夕暮れ時、赤褐色の製塩土器から湯気が立ち、土器の下では薪がパチパチいって焔がチラチラ見える…なーんて風景は、確かに風流かもしれないと、思うようになってきた。