国立能楽堂 普及公演 止動方角 忠度

解説 能楽あんない  
忠度と花の宿り  馬場あき子 
狂言 止動方角(しどうほうがく) 山本則俊(大蔵流
能  忠度(ただのり) 梅若晋矢(観世流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/1819.html 

ひっさびさに能楽堂へ。なんだか嬉しさがこみ上げてきた。「能楽堂って、本っ当に良いですねー」と、水野晴雄化する私であった。


解説

忠度といえば、この前、狂言の「薩摩守」を観て以来、私の頭の中では必ず「忠度」=「タダ乗り」の自動変換が起こるになってしまった。けれど、一般的には、千載集に詠み人知らずとして採録された一首のエピソードが有名だ。
平家一門が都落ちする前、忠度は、当時の歌壇の第一人者の師、俊成の家の門に現れる。忠度は、俊成に和歌集を託すと、「やがて世しづまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙ッて(選集に入れていただければ)、草の陰にもうれしと存(じ)候はば、遠き御まもりでこそ候はめ(遠いあの世で俊成殿の守護となることでしょう)」といって去っていった。

平家物語のここの場面はヘタな映画よりずっと台詞も場面割もかっこいい。
結局、俊成は千載集を撰する際、忠度の歌、「ささ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山ざくらかな」を選んだが、勅勘(天子からとがめを受けた人)の身である忠度の歌のなので、詠み人知らずとした。さらに、俊成を師とできたのは、ひとつには、俊成は平家の人々にも和歌を教えていたこと、それから忠度の母方の祖父、藤原為忠は俊成の和歌の師であったこから、縁があったのではということであった(このあたりうろ覚え)。


面白かったのは、忠度の位について。薩摩守のように遠国の国守は位が低いのだそうだ。なるほど、そういえば、実方も左遷されて陸奥守になっちゃったわけだし。実際、忠度は41才で従四位従四位というと、もう下から数えた方が全然早い。というのも、五位までがギリギリ貴族で、六位以下は地下人なのだ。平家なのに、こんなに不遇というのはどういうことだろう。馬場さんは、忠度が和歌の道に精進したのはなかなか昇進しなかったこともあったのではないか、と話されていた。でも、そういう訳で、彼は文武両道だったのだ。


それからもうひとつ興味深かったのは、後シテで使う面について。忠度は「熊野育ちの大ぢから、早業(敏捷に行動して戦う武技)」と言われて、死ぬ直前も右の腕を切り落とされて左の手で敵を約2メートル投げ飛ばした、とあるくらいで、屈強な大男であったようだ。それに年齢も俊成のところに和歌を託しに行ったときは40才ぐらいだったそうだ。したがって本来なら屋島義経のように平太の面でもよいはずだが、和歌の名手という性格をお能的に解釈して、20代〜30代ぐらいの公達を表す中将を使うんだとか(ちなみに前シテは笑尉)。この曲の中でも、「その年、未だしき」ってことになっている。


止動方角

若干威張りん坊の主(山本康太郎師)は茶くらべ(闘茶)に行くために、太郎冠者(山本則俊師)にお茶と太刀と馬と馬丁を借りに行くようにいう。伯父は二つ返事で貸してくれるが、馬丁は忙しくて出かけているので、自分で引いていけという。そして、この馬は「すわぶき」(くしゃみ)をすると暴れ、「止動方角」というとおとなしくなるという。最初、太郎冠者が馬を引き、主人は馬に乗るが、馬はクシャミを聞いて大暴れ。結局、太郎冠者が馬に乗る。そこで、太郎冠者が主人が昇進した暁には自分もえらくなるだろうから、その時のために人を使う練習をしたいと言い出し。。。というお話。とにかく着ぐるみに飛出の面に黒頭の馬(山本則秀師)が大変そうだった(着ぐるみのことは狂言ではモンパというらしい)。


狂言って誰が作ったか、いつ頃出来たのかが分からないから、そこがつまらないなー、と思っていた。が、出来た時期に関しては狂言を注意深く見ると分かる場合があることに気がついた。例えば、今回は、茶くらべ(闘茶)のお話だけど、闘茶は、千利休等が確立した侘茶の成立前、鎌倉時代から室町時代にかけて流行した遊びだから、14世紀後半〜15世紀前半ぐらいのお話ということになるのだろうか。また、闘茶のために、主人が極上のお茶を一袋も持っていくというのも面白い。茶道からの連想で茶会の主人がお茶を用意するのかと思っていたけど、参加者が持ち寄るものらしい。

また、主は太刀や馬を持っていなくて伯父に借りてるが、位の高さが馬の所有や帯刀しているかどうかで判断されたのだ、と分かって面白い。


ところで、全然、狂言の中身とは関係ないけど、大蔵流でも山本東次郎家のものってすごく久々に観た。私が見た事があるのは大抵、間狂言で、普通の狂言を見たのは、多分、「御茶の水」ぐらい(山本則直師が新発意、則俊師がいちゃ、東次郎師が住持をやった)。今日、止動方角を見て、同じ大蔵流でも、茂山家とは芸風が結構違うような気がする。山本東次郎家は何と言うか、間狂言ぽいというか。


忠度

今回のワキはよくある旅僧ではなくて、俊成の身内の者、と断っている。俊成が亡くなってから出家したと言うわけだ。それに俊成の子である定家のことは定家と呼び捨てにしているので、多分、定家より偉い又は年長という設定なのかも。わざわざ身内の者としたのは、やはりここは千載集に名前を載せてくれないと成仏できないという話だから、この件をちゃんと定家に伝えてくれる人、ということでそういう設定になったのだろう。薩摩守殿、ご安心めされい!結局、詠み人知らずのままだけど、今や岩波文庫千載和歌集の表紙カバーにある解説の冒頭にさえ、ちゃんと忠度が俊成に和歌巻を渡したエピソードが載ってますぞ。とゆーか、改めて千載集を見たら、経正の歌だって詠み人知らずとして採集されてるのに、和歌の件では経正は化けてでてない。


前場は、修羅能とは言え、さすが歌人お能だけあって、和歌で多用される言葉が随所に出てきて、聞いててうっとり。「申楽談義」には、作者の世阿弥も忠度について「上花」と自画自賛しているとか。(私は平家物語の詞章の方も動きがあって好きだけど)


後場は、中将の面になり、平家の公達らしく、ある時は優雅で颯爽とし、またある時は武将らしく力強い舞。「六郎太やがてむずと組み、両馬が間(あい)にどうと落ち」というところでは、ぴょんとシテが飛び上がってびっくりした。あそこまで勢い良く飛ぶのは、歌舞伎なんかでもそう見ない。


ところで、馬場さんによれば、忠度集というのがあって、百一首あるという。平家物語には、忠度が俊成に渡したのは「百余首」とあるのでちょうど数が一致するのだそうだ。もし俊成に渡したものが残っているなら感慨深い。でも、なんだか、また忠度が化けて出てきて、「あの忠度集は俊成に渡したものにて候。この件、平家物語に加筆修正していただきたく候へ」とか言い出しそうで恐い。


そして私の備忘録。埼玉県深谷市に清心寺というお寺があって、そこに忠度のお墓(供養塔)があるそう。それから六弥太のお墓も。今度、行ってみよう。