国立能楽堂 普及公演  犬山伏 船橋

解説 能楽あんない 二河の流れと船橋  脇田晴子(石川県立歴史博物館館長)
狂言 犬山伏(いぬやまぶし) 井上靖浩(和泉流
能  船橋(ふなばし) 関根知孝(観世流

http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2473.html

お能っていうものは、全く油断ならない。とっても面白かった。



解説 能楽あんない 二河の流れと船橋  脇田晴子

印象に残ったのは、お能の幽霊のお話と山伏道楽のお話。

まずは、幽霊のお話。夢幻能に出てくる幽霊に関しては二つの説があり、勧進が本質であるため、地獄の苦患を見せる地獄から来た幽霊という説と、現世の苦しみを訴えて済度を願う現世の幽霊がある説の二種類があるという。石川館長の考えとしては、古いお能は確かに地獄の苦しみを見せる幽霊であったかもしれないが、後に曲にバリエーションを持たせる意味もあり、平家物等の現世の苦しみを語る幽霊が生まれたのだろうという。なるほど。目からウロコ。とはいえ、地獄タイプの曲は、私が見た範囲では、「求塚」ぐらいしか思いつかないなー、と思って、自分のブログの検索窓に「地獄」と入れて検索してみたところ(自分のブログに「地獄」という検索ワードを使う日が来るとは思わなかった…)、他に、「善知鳥」、「歌占」(曲の中で地獄の曲舞を舞う)、「百万」などがあるようだ。
ちなみに、今回の船橋のお話は世阿弥以前にあった曲を世阿弥が改変したのだそうで、地獄の苦患を見せる古いタイプのお能だという。

それから、山伏の話。聖護院の辺りでは、山伏道楽というのがあったというお話。脇田館長の幼少時代は、近所では山伏の真似事をする道楽をする人達がいて、多くの家に山伏の装束があったのだそうだ。したがって、学校の学芸会では、毎年、「勧進帳」が出たとか(山伏の装束がすぐ揃うので)。いいなー、私も勧進帳、やってみたい。四天王になってスクラムを組んでみたい。

そういえば、浄瑠璃の「女殺油地獄」、河内屋内の段で山上参りの行者講という人が、確か山伏の格好をしていて、「普通の人でも山伏の格好をすることがあるんだろうか」と思っていたが、実際、そういう慣習があったのだ。


犬山伏

出家(佐藤融師)が馴染みの茶屋で休んでいると、理不尽なことばかり言う山伏(井上靖浩師)が茶屋に現れる。山伏は茶屋の主人(佐藤友彦師)に理不尽なことを言うだけでなく、床机に座る出家にまで難癖を付け始める。とうとう、「自分の荷物を持って次の目的地までお供をせよ」と言い出す山伏と出家の言い争いとなるが、茶屋の主人は良い案を思いつき…というお話。

脇田館長の解説を聞いている途中にお調べが聞こえてきて、「何、なに?」と思っていたら、この犬山伏の中で山伏が登場する時に、次第の囃子(ワキやシテが登場する時の囃子)が演奏されたのだった。ただ、お能の時のように椅子に腰掛けたりしないで、間狂言などの時に向き合って「休憩」しているような状態で演奏されていた。

主人役となるはずだった井上菊次郎師を楽しみにしていたのだけど、病気休演ということで残念。最近、気候の変化が激しいし、お大事にしていただきたいものです。


船橋

上野佐野のかかる船橋の話で、万葉集第十四、3420 「上野佐野の船橋取り離し 親は離(さ)くれど吾は離るがへ」という歌の背景にある伝説からとったお話。ある男が川の向こうの女の家に夜な夜な船橋を渡って通っていたが、二人の親同士が相談し、二人が会わないようにするために舟橋を取り払った。男はそんなことはつゆ知らず、ある夜のこと、船橋を渡って行こうとして川に落ちて死んでしまった。相手の女もこれを嘆き、川に落ちて死んでしまったという、伝説だ。

川を挟んだ家同士、二親が反対している、男女は最後は死んでしまう、というのは、何となく、浄瑠璃の「妹背山婦女庭訓」の妹背山の段を思い出させる。驚いたのは、間狂言の時で、所の者が、男女の話を詳しく語るのだが、その中に、妹背山の段のヒロインの名前、雛鳥が出てくるのだ。男性が川に落ちた後、遺体が上がってこなかったので、女は必死に探す。いくら探しても見つからないので、遺体のあるところに飛んでいくという雛鳥を放ってみるが、雛鳥はどこかに飛んでいってしまった、つまり遺体は見つからなかった、という話なのだ(だから、歌の中の「とりはなし」は「船橋を取り放し」とも「鳥は無し」とも解釈できるのだという話をする)。亡骸のところに雛鳥が飛んでいくというのも、妹背山の段を思い出させるところがある。妹背山婦女庭訓の作者は、このお能を間狂言も含めて知っていて、参考にしたのだろうか。

話を船橋に戻すと、前シテは直面で、その亡くなった男の化身であり、後シテは男の霊だ。語りが(歌舞伎用語で言えば)口跡が良く華やかで、聞いていて楽しかった。また、シテの良さは橋掛かりに出た時に既に分かる、というが、関根知孝師の、特に後シテは正に橋掛かりから違っていた。舞いも素敵だったし、地謡囃子方も密度の高いパフォーマンスで、ぐっと惹きこまれてしまった。


話の順番が前後するけれども、冒頭、ワキ(宝生閑師)の最初の台詞が興味深かった。船橋を見る前にチェックしていた半漁文庫の船橋の詞章では、

これは三熊野より出でたる客僧にて候。我未だ松島平泉を見ず候ふ程に。此春思ひ立ち松島平泉へと急ぎ候。

となっている。ところが、今回の能では、こんな風に自己紹介していた。

これは本山三熊野の山伏にて候、我この程は都に候ひて、洛陽の寺社の懲りなく拝み廻りて候、またこれより東国修行と志し候

私なら、回向を頼むとすれば、なるべく霊験がありそうな後者にお願いしたいところだ。それにしても、お能によく出て来る「諸国一見の僧」って不思議な存在だ。そんな一見さんに、シテ達は大事な話をしてしまっていいものなのだろうか。それとも、そういう全くの部外者で直ぐにどこかに行ってしまう僧だからこそ話したくなる話もあるのかもしれない。