世田谷美術館 特別展「平泉〜みちのくの浄土〜」展

特別展「平泉〜みちのくの浄土〜」展
世界遺産登録をめざして
2009年3月14日〜4月19日 1-2階展示室
http://hiraizumi-tokyo.com/

今年は平泉に行ってみたいなーと思っていたら、あろうことか、平泉の方が東京に来てくれた。平泉も世界遺産登録のためのプロモーション活動で大変なのである。

ちなみに、桜が満開の土曜日の砧公園は、人ごみとお子様達の金切り声と風に舞う砂埃で大変なことになっておりました。いやはや。

第一章 みちのくの古代、みちのくの仏達

みうらじゅんいとうせいこうの「見仏記 2」には、東北の仏像について、「パースが狂っている」、「伝達ミス」等々酷いことが書いてあったが、検証するのをひそかに楽しみにもしていた。

実際、みうら氏のおっしゃるとおり、パースは狂っていた。東北の仏は、実力派の仏師の作品というよりは、一介の木工職人が「作れと言われたので何とかがんばって作ってみました」という感じの仏像達が多い。ふと、それだったら、中央の仏師に制作してもらってそれを解体して運んで平泉で再度組み立てた方が良かったんじゃないか?等と思ったりした。が、しかし、恐らく、中央の物を取り入れるのではなく、ヘタであれ何であれ、自分達で作ることが重要だったのだろう。

全然話が違うけど、国立能楽堂の3月のパンフレットに、いとうせいこう氏が寄稿していて、趣味は「寺巡り」と書いていた。さすがに国立能楽堂のパンフレットに「見仏(けんぶつ)」とは書けないのか、と、ちょっと笑ってしまった(見仏記には、寺でなくて仏(ブツ)だ、と書いてあるのに!)。それにしても、既に1,000箇所は回っているとか。すごい。


聖観音菩薩立像(1体、木造 一部墨描平安時代後期(11世紀) 岩手、天台寺

ノミの跡の残る木彫りの仏像というのがどうも苦手で、民芸品みたいでちょっとなあ、と思っていた。しかし、解説によれば、ノミの跡の残る仏像を鉈彫といい、神木を使用して仏像を制作したことを表すのだということだった。そういわれると、神木であればこそ、あまり写実的に彫らずにノミ目を残す位の方が良いのだという価値観も分かるような気もする。

二十五菩薩像及び飛天像残欠(10体、木造 漆箔平安時代後期(12世紀) 岩手、松川二十五菩薩堂)
菩薩第四号 像高32.5
菩薩第五号 像高35.3
菩薩第六号 像高17.0
菩薩第七号 像高20.7
菩薩第二十号 像高48.5
菩薩第二十一号 像高49.0
菩薩第二十二号 像高57.5
菩薩第二十三号 像高64.7
飛天その一 像高47.0
飛天その二 像高43.4

とっても不思議なことにこのうちの何点かは正座した両足のみなのだ。今まで正座した仏像というのは見たことが無い。どういうことなのだろうか?


第2章 仏都平泉〜みちのくの中央、朝日差し夕日輝く〜

前九年合戦絵巻(1巻紙本著色鎌倉時代(14世紀) 東京国立博物館

これは、先日、東博の平常展で見た。東博で見たときもどういう場面なのか分からなかったが、今回、説明プレートを見ても、イマイチ何の場面か分からず。いつか近いうちに、前九年の役後三年の役についてきちんと整理しなければ。


柄杓(〔柳之御所遺跡出土〕1本平安時代後期(12世紀) 岩手、平泉町

瓢箪で出来たひしゃく。ひしゃくというのは、実は、瓢箪のもとの名前、「ひさご」が訛ったものなのだそうだ。ひさごを柄杓として使ううちに、「ひさご」から「ひさく」に転化し、更に柄杓の代名詞になってしまったとか。ついには、瓢箪の方は「なりひさご」といって区別するようになってしまったとか。実は今、「瓜と龍蛇―いまは昔 むかしは今 (第1巻)」(網野善彦/大西廣/佐竹昭広福音館書店)という本を読んでいて、ここに書いてあることの受け売りです。

この「いまは昔 むかしは今」は児童書ではあるのだが、あるモチーフ、例えば、第一巻なら、瓜(含む夕顔、瓢箪)と龍、そこから派生するうつぼ(うつろ)、川、七夕というモチーフについて、古事記から歌舞伎まで、ありとあらゆる説話や物語、画像を集めてある。ほとんど解説は無く全編これ物語&画集なのであるが、自然と、瓜、龍、うつぼ(うつろ)、川、七夕などが何を意味するものなのかを読者に考えさせる内容になっていて、非常に面白い。ここのところ、この本に夢中なのだ。

刀子(〔とうす、柳之御所遺跡出土〕1口、長15.5 元幅2.3、平安時代後期(12世紀) 岩手、平泉町

何に使うのか分からないけど、果物ナイフのようなもの。平安時代には、包丁はあったのかどうか、内心心配していたのだが、包丁のようなものがあって安心した。

というのも、われながら馬鹿らしいと思いつつも、気がつくと、よく、「もし、○○時代(例:室町時代)に行ったら、周りの人とコミュニケーションをとれるか」「その時代に上手く適応できるか」というシミュレーションを頭の中でしているので、平安時代に私は無事お料理を出来るか、作るとしたら献立はどうするかも当然気にしていたのだ。私の予想としては、会話は武士相手であれば室町時代辺りまでは訓練次第でなんとかなる気がするが、あの仮名の崩し字の手紙は絶対に読めないので、一日も早く読めるようになろうと、時たま、思い出しては訓練している。

毬(〔柳之御所遺跡出土〕1顆平安時代後期(12世紀) 岩手県

打毬の毬なのだ。初めて見た。木製(杉)でゴルフボールくらいの大きさの、球体というよりは多面形だ。こんなものをあんな打ち難そうなバットのようなもので、しかも整備していない普通の庭で打って遊んでいたのだ。昔の人は余程、運動神経が良かったに違いない。

[第4章 祈りとまつり]

中尊寺の能と、毛越寺の田楽、延年の舞。中尊寺お能喜多流なのだそう。毛越寺の田楽、延年の舞というのは、ものすごく見てみたい。