鐵仙会研修所 第36回研究公演 響の会 誓願寺
響の会 第36回研究公演
2009(平成21)年07月04日(土)
15:15 開演(14:45 開場)
舞囃子〈高砂 八段之舞〉 清水寛二
能〈誓願寺〉 シテ・西村 高夫
http://www.hibikinokai.com/
はじめて鐵仙会研修所にお邪魔しました。能舞台そのものは古そう。コンクリート打ちっぱなしの壁面は、最初、音響に違和感がありましたが、まあ、気にするほどでもないです。が、お囃子方とか能楽師の方々は、どう感じてらっしゃるのでしょう?それから、座布団の見所が新鮮でした(段差が付いているので、椅子のように腰掛けることも可能です)。私、国立能楽堂で観始めてよかった。座布団から始まったら挫折していたかも。でも、今となっては、なかなかくつろげる空間で素敵だと思います。
今日観た舞囃子の高砂は、荘厳で力強くて、ワクワクする、大変面白い曲であった。八段之舞の小書がつくと、通常は五段なのが八段になるのだそう。ただし、高砂自体、観たことがないので、よく分からなかったけど、舞の部分の後半が普通はないのだろう。近いうちに是非、お能でも観てみたい。
一遍上人(工藤和哉師)が誓願寺に訪れて出会った里の女(西村高夫師)は、実は和泉式部の霊であったというお話。
一遍上人は、当初は、六字名号(南無阿弥陀仏)を書いた念仏札を配っていたのだが、紀州で自分は不信心であるという僧に札の受け取りを拒否されて悩んだ。しかし、ある日、熊野権現が夢に現れ、「信不信を選ばず札を配るべし」という夢告を受けて、新に「決定(けつじょう)往生 六十万人」という言葉を加えた念仏札を配ることにする。里の女は、その「六十万人」という言葉に関して疑問を呈するのだった。
そんな言葉尻に、いちいちこだわるか、と思ってしまうが、少なくともこの曲が初演された当時は、仏教の教えをそこまで真剣かつ文字通りに受け止めていたのだということなのだろう。そうでなければ、何故、和泉式部や一遍上人のような歴史上のスーパースターをフィーチャーしていながら、そんな細かい話を言い出すのか、ということになってしまう。
さらに里の女は、自分は誓願寺にある石塔に住むものだと言い残すと去っていく。里の女は若女風の面で若い女性のような感じだけれども、壷折の装束は、茶地に蔦と蔦の葉の文様で、年齢不詳の美女なのでした。
間狂言では、誓願寺の近くに住まいする者(野村万蔵師)が現れ、最初に誓願寺の御由緒について述べる。
確か、天智天皇の御発願で、当初、奈良に建立され、その後、桓武天皇が京の都に移したという話や、ご本尊の話、それから、泉式部が敷島の道(和歌)に優れており、三十才過ぎまでは信仰も特に厚い訳ではなかったが、娘が亡くなり、仏の道を求め、誓願寺に芝の庵を建ててそこで亡くなったということ、それから、泉式部をまつる石塔があること等々を語る。
ご本尊については、私の記憶が曖昧なのだが、「本来のご本尊は観音菩薩だったが、天皇の命で、仏師が阿弥陀仏を建立した」というように話していた気がするけれども、もらった誓願寺に関するプリントには、「天智天皇の霊夢により阿弥陀仏を制作したが、その仏師、賢問子(けんもんし)と芥子国(けしこく)父子が、地蔵菩薩、観音菩薩となり仏像を制作していた。そのことから、これらが春日大明神の本地仏であるため、ご本尊は春日大明神が造ったと崇め奉られている」と記載されている。ひょっとすると、間狂言の言いたかったことは、元々のご本尊は観音菩薩(=春日大明神)だけれども、天智天皇の御願で阿弥陀仏になった、ということだったのだろうか。
後シテは、どんな装束なのかと思ったら、これが、白蓮の天冠に、オフホワイトの地に金糸で夕顔の文様の舞衣、紫色の大口袴で、まるで天女。他の曲における小野小町とはえらく待遇が違うのでした。
ああ、泉式部の歌をもっと知っていれば、詞章ももっと深く鑑賞できるのかもしれないが、今は修行不足。彼女の人生はかなり波乱万丈で、面白そうなのではあるのですが。次に観るときは、和泉式部のことも、もうちょっと分かっているといいのだけど。
なお、どうでもいいことですが、後シテの天冠の飾りが、雲に目鼻口を付けたような形をしていて、一度、顔に見えてしまうと二度と単なる飾りに見えず、がん見しているうちにクラウド君という名前までつけてしまいました(雲みたいな形なので)。またクラウド君達とどこかで会えることを楽しみにしています。
↑銘:クラウド君
<番組>
清水寛二
笛 八反田智子
小鼓 森澤勇司
大鼓 柿原弘和
太鼓 観世元伯
地謡
馬野正基
長山桂三
谷本健吾
安藤貴康
能〈誓願寺〉
前シテ・女
後シテ・和泉式部の霊
西村高夫