国立能楽堂 定例公演  鬼瓦 山姥

狂言 鬼瓦(おにがわら) 大藏彌太郎(大蔵流
能  山姥(やまんば) 本田光洋(金春流
http://www.ntj.jac.go.jp/performance/2479.html

資料室

最近、資料室が閉まってて、寂しかったけど、また展示が始まった。今回は、「能の意匠」ということで、能楽を題材にした小袖、蒔絵、それから能装束。松葉と箒と何か(失念!)で高砂を表す、とか。酒井抱一の元絵による杜若の杯(蒔絵は原羊遊斎)が、いかにもって感じで素敵。こういうものを観るのは、とても楽しい。それから、五月の能楽堂のポスターおよびパンフレットの絵の元になった装束も。


鬼瓦

領地紛争が無事解決し、都から帰ることになった大名(大蔵彌太郎師)。これも今まで参拝してきた因幡堂のお陰、と太郎冠者(大蔵吉次郎師)と因幡堂に改めてお礼参りに出ることにする。あらためて因幡堂を眺めてみて、その立派さに感銘を受けた大名は、欄干やら破風やらに感心しているうち、鬼瓦を見つける。鬼瓦を見て、自分の妻を思い出した大名は泣き出してしまい、、、というお話。

鬼瓦を見て、自分を怒るときの妻の顔にそっくりとは、ひどい。昔から夫というのは妻に怒られるものらしい。まあ、逆だったらドメスティック・バイオレンスになりかねず、狂言にならないけど。

大蔵流茂山家や山本家は見たことあったけれども、宗家のは初めて拝見しました。


山姥

話自体は凝った内容ではないので、それほど期待していなかったのだけど、後場の舞の部分が多くて非常に見応えがあったえがあり、面白かった。


「百魔山姥」と呼ばれ、山姥の曲舞が評判のツレの遊女(本田芳樹師)とワキの従者(工藤和哉師)達は、善光寺参りに向かっている。境川に着いて、里人(善竹隆司師)に善光寺への道を聞くと、里人は三つの道があり、うち一つは上路越(あげろごえ)は険しいが阿弥陀が通った道だという。そこで、一行は上路越を選ぶことに決め、早速出発しようとすると、何故か忽ち暗くなってしまう。そこに女(本田光洋師)が現れ、宿を貸すという。

実は、その女は山姥で、百魔山姥が山姥の曲舞で評判を取っておきながら、山姥のことを省みないと恨み言を言い、本物の山姥の舞を見せようといって中入りとなる。

ツレの遊女は小面で紅と浅葱の段替りの唐織に網代車の留守模様で、いかにも都の女性という感じ。

山姥の繰言は、今で言ったら著作物(振り付け及び謡?)の盗用問題。成程、室町時代には、既に著作物に対する所有の概念があったのか。鎌倉時代やら平安時代にもそういう考えというのは、あったのだろうか?一瞬、「そういえば、大伴黒主小野小町に和歌の盗作の無実の罪を着せようとする草子洗小町があったが、これはそういう話だっけ」と思ったが、考えてみれば、あれは、室町時代以降に出来たお能のお話でした。

事前に詞章を読んだ時は、「山姥、かわいそう。現代なら、著作権の利用料を請求できるのにね。」と思っていたが、舞台上の女を見ると、きんきらりんのゴージャスな唐織をお召しでいらっしゃる。ひょっとして、サブマリン特許で、色んな人から法外な利用料をふんだくってんじゃないの?と、一瞬疑いの眼を向けてしまった。が、考えてみれば、面は曲見。年をとって安い服を着ると必要以上に老けて見えるので、それで敢えてゴージャスな装束を着ているのかも。大体、京のみやこで話題になるくらいの舞を創作するようなアーティスティックな人なのだから、装束にもうるさいに違いない、と納得することにした。


で、間狂言が面白い。団栗(どんぐり)が山姥になるとか、オチを忘れてしまったけど、くだらない駄洒落を言う。ワキにすかさず突っ込まれると、「いやー、里の者は、中途半端にしか伝え聞いておりませんので、都の人の話は勉強になりますなー」的なことを言って、その場をごまかす。多くの場合、アイは、どうしてそんなことまで知っておるのじゃ!と突っ込みたくなるような「家政婦は見た」タイプの登場人物が多いのだけど、この間狂言の内容はおそろしくいい加減なのでした。


後場は、ツレとの舞比べとかやってくれたら面白いな、と思ったが、そういう展開ではなくて、シテの舞だった。しかし、詞章も面白かったし、舞も素晴らしかった。この詞章は世阿弥作と考えられるそうだけど、何となく、私も世阿弥っぽさが分かるようになってきたかも?

舞の方も、とても面白かった。舞は全く分からないけど、とても面白いと感じるときは、大抵、謡とお囃子と舞とが一糸の乱れも無く一体となっているように感じ、シテが袖を返したり、扇をさしたりするだけでも、一々、素晴らしく感じる。面は山姥専用の面とか。装束も、山道飛雲の半切?、金をベースとした複雑な文様の法被等、素敵なものでした。襟元に鱗文様があったけど、山姥はやっぱり蛇と関係あるのかしらん。


というような訳で、大変満足して能楽堂を後にしたのでした。