奈良、行き当たりばったり:春日大社(1)


猿沢の池を探してウロウロしているうちに、春日大社の一ノ鳥居の前まで来てしまった。

猿沢の池も早いところ見たいけれど、春日大社の方にも、現場検証してみたいことが色々ある。例えば、春日龍神のこととか、春日燈籠とか、明惠上人のこととか、藤原氏のこととか、鹿のこととか、三笠山のこととか等々。


などと考えながら、鳥居をくぐってみると、いきなり、「影向の松」の切株に遭遇。春日大社にあるということをすっかり忘れていた。


能舞台の背景(鏡板)には老松が描かれることになっていて、それは、春日大社にある、神の依代である影向の松を表しているという。「影向の松」の前では、神に捧げる舞が舞われることになっているのだ。能舞台の鏡板の老松は、正確には、舞台正面の舞台と見所(客席)の間にあたるところに目に見えない「影向の松」があって、その松を映したのが、鏡板の「鏡松」なのだという。


…というような説明を見たりするけれども、いままでは、このような説明を読んでも、どうも頭がぐるぐるしてピンとこなかった。でも、実在する(した)松の切株をみて、「能舞台の松は皆この松をモチーフにしているのだ」と、やっと腑に落ちた気がした。だから鏡松は老松だし、能楽師は正面を向いて舞うのだ。


能舞台には、他にも謎な点がある。橋掛りには、一ノ松、ニノ松、三ノ松があるが、これは何を表すのだろうか。大きさを少しずつ変えてあり遠近感を出す、という説明がある時もあるけど、遠近感を出さなければならない必然性はないし(例えば似たような舞台機構の歌舞伎の花道は遠近感を出そうなんて発想はかけらもないし、その必要性を誰も感じてこなかったに違いない)、それは副次的な効果だと思う。ほかにも、先の「鏡松」の話に戻るが、何故、鏡板にストレートに影向の松を描くのではなく、わざわざ目に見えない影向の松を映したものということになっているのだろうか。多分、「『鏡』に映した影」というところにヒントがあるような気がするけど、不勉強ゆえよくわからない。民俗学の本に手掛かりがあるかもしれない。


一ノ鳥居付近で驚いていてはその先どうなるものやらと思いつつ、つづきます。