セルリアン能楽堂 定期能7月公演ー喜多流ー

解説 馬場あき子
狂言 清水 野村万作野村万之介
能 通小町 友枝昭世
http://www.ceruleantower.com/nohtheater.html

前から観てみたかった友枝昭世師のチケットがとれたので、セルリアンの能楽堂に行ってみた。


解説

大好きな馬場あき子さんの解説。自分で詞章を読んでいた時にはわからなかったところが、疑問氷解。昔の人は、解説無しで理解できたのだと思うと、教養の差が思いやられる。昔と今では世の中で必要とされている知識が全く異なってしまったとはいえ、ああ、まじめに古典や歴史を勉強しておけば良かった。


馬場さんの話で、一番、印象に残ったのは、「中世では、執心を持っている人ほど成仏しやすいと考えられた」というお話。

平安時代であれば、深草少将の悲恋も人々は「宿世」と考えたのだという(そういえば「源氏物語」なんて、一体、何度「宿世」という言葉がでてくるだろう!)。一方、お能が生まれた戦乱の中世においては、そんな鷹揚な考え方は流行らず、醜い執心は、反面、純粋な心という捉え方が、生まれたのだという。以前観た「阿漕」や「鵜飼」、「善知鳥」も、何故、あのようにシテの執心をメインに置いた話が上演されるのか、よく分からなかったのだが、今日の馬場さんのお話を聞いて、納得した。私は飽きっぽい性格であるが、自分の実感からも、確かに「一意専心」の人と比べて飽きっぽい人の方が成仏しやすいとも思えない。もっと精進しなければ。


色々面白いお話があったのだが、ほかには、詞章の中に引かれている、「秋風の吹くにつけけてもあなめあなめ小野とはいはじ薄生ひけり」という歌の話も忘れないようにメモしておこうと思う。この歌の「あなめあなめ」というところは意味不明とのことだが、歌の趣旨は、市原野辺に髑髏があって、その目の部分からススキが生えており、実は小野小町の成れの果てである髑髏は、風が吹く度に目が痛いと言うという…というホラーな伝説にでてくる歌なのだそうだ。


それから、僧が、深草少将に「百夜通ひし所を 罪障懺悔にまなうで御見せ候へ」と言うのが私にとっては、何故、そんなことを急に言い出すのか謎だったのだ。まるで、有名な歌手に「あのヒット曲、歌ってください」と言ったり、お笑い芸人に「あのギャグやってください」と言ってるみたいではないか。が、これは、馬場さんによると、ワキ僧の「どうにかして少将と小町を成仏させてあげたい」という気持ちから出た言葉で、例えて言えば、警察が犯人立ち会いの下、現場検証をするようなものだという。なるほど、執心の要のエピソードとなっている百夜通を再現することで、少将は百夜通を追体験し、成仏のきっかけを見いだすのだった。


もうひとつ、お能の中において、「老婆物」というのが非常に重要視されているというお話も興味深かった。今回の通小町は老女という訳ではないが、鸚鵡小町、卒塔婆小町など、小町物の中には、小町を老女として描く曲が多い。

老人を積極的に描くというのは、他の日本の芸能にはあまり無い気がする。少なくとも歌舞伎では、いくつになっても若い役をやれる限りやり続けるというのが役者さん達の望みではないだろうか。文楽に出てくる老人の方は大活躍だし、理があるのは大体老人の方だけど、お能ほど重きはおかれていない。日本は若さを重要視する文化というようなことが言われるけど、お能ではあまたの老婆や老人を主人公に選ばれており、かつ、そのうちのいくつかは重い習い物になっているということは、非常に興味深いことだ。


以前、何故小野小町が老いさばらえた姿で描かれるのかについて、平安末期に流行った九相図(人間が死んで野ざらしになり、骨だけになってしまう様子を九つの絵で段階的に示したもの)に、美人の誉れ高い小野小町が主題として選ばれたものが多く流布したことについて述べている本があった。九相図というのは、それを眺めることで世の無常を悟るための図ということらしいのだが、それに小野小町が主題になったものがあったために、小町は老女になって落ちぶれたといイメージがお能の求めるものとうまく合って、小野小町が大活躍しているのかもしれない。


清水

主(野村万之介師)は、いつも太郎冠者(野村万作師)にばかりお茶用の水汲みを頼む。女子供でも出来る水汲みをよりによって忙しい自分にばかり頼まれていては、太郎冠者は、たまったものではない。そこで太郎冠者は一計を案じ、鬼が出たのでもう水を汲みに行かないと主に報告することにした。主がわざわざ手渡した桶も鬼に食われたという。主は不思議に思いつつも桶を取り返してこようと自分も鬼が出た場所に行ってみると、やはり鬼が出た。早速戻って太郎冠者にこの話をしてみたが、どうも何かおかしい。ついに主は鬼の正体を見破り…というお話。


馬場さんの解説によれば、狂言の中では専らお調子者の太郎冠者であるが、実際の中世の主従関係というのは、なかなか大変なものであったのだそうだ。そういわれてみれば、この太郎冠者もそうだが、狂言の中には主の人使いの荒さについての不平をいう太郎冠者が結構多い気がする。それでも、だいたいの太郎冠者は主を大事に思っていて、とてもえらいのである。


通小町


ちょっと変わった構成で、前場はワキ僧(宝生閑師)とツレの女のみしか出てこないし、間狂言もない。そしてツレが小野小町(大島輝久師)でシテは深草少将(友枝昭世師)。小町は最初は、曲見に紅無の着流し(茶と浅葱の段替りの唐織に秋草文様)だった。本来はこのまま、後場まで行くそうなのだが、今回は、中入りをして、後場では小面に紅入の唐織(源氏車の文様)となった。これは、私的にはイマイチ。確かに後場深草現場検証シーンが山場なので、小町も当時の姿に戻ってみるというのもよくわかるが、なにせ、肝心の深草少将が痩男の面なので、小面を付けた「小町♪」という感じの小町と釣り合わない感じがして怖かった。つまり、このお能を観る前は、「百夜毎晩通ってこい!」などという小町は随分と高飛車な女性だなと思ったが、あの少将と小町をみると、あまに釣り合っていないので、百夜通ってきなさいなどという無理難題をふっかけて何とか少将をかわそうとする小町の気持ちも分からないではなかった。


でも最後は、小町は少将が禁酒していることを確認したら二人で成仏してしまうのだから、世の中、分からないものである。


というわけで、解説で感動したわりには、実際のお能の方はよく分からないままに観終わってしまったのでした。修行が足りん!



<番組>
清水
 太郎冠者 野村 万作
 主 野村 万之介

通小町
 シテ(深草少将の霊) 友枝 昭世
 ツレ(小野小町の霊) 大島 輝久
 ワキ(僧)宝生 関
 笛 槻宅 聡 
 小鼓 曽和 正博
 大鼓 亀井 広忠
 地頭 塩津 哲生