サントリー美術館 美しきアジアの玉手箱

美しきアジアの玉手箱
シアトル美術館所蔵 日本東洋美術名品展
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/09vol04/index.html

宗達の鹿下絵和歌絵巻が出るというし、フライヤーに掲載されている美術品はどれも美しいし、楽しみにしていた展覧会だったが、期待以上の内容だった。シアトル美術館、こんな素晴らしい美術館だったとは。以前、シアトルに行った時に時間がなくて観れなかったのは返す返すも残念だ。


二河白道図(一幅、鎌倉時代、13世紀、シアトル美術館)

今までも同じ主題の絵を観ていたのかもしれないが、先日、国立能楽堂船橋を観たときの解説で初めて知った主題。この絵では、二河が赤と黒にぱっくり分かれていて、なんかこんな感じの二つのタレに付けて食べる中華の鍋料理なかったっけ?などと不謹慎ながら思い出してしまった。本来は、赤が火で黒が水なんだそうです。

源誓上人絵伝(一幅、南北朝時代、延文5年(1360年)頃、シアトル美術館)
源誓上人絵伝(一幅、南北朝時代、延文5年(1360年)頃、東京芸術大学

大谷本願寺の境内を描いた絵で甲斐万福寺に伝来したもの。一つの組になっていたものが、米国と日本に離ればなれになり、今、何十年ぶりかで再会した。展示では構図を受けてシアトル本を左に、芸大本を右にしていたが、本来は、シアトル本を中心としてさらに左にもう一幅あると考えられているとのこと。
解説には「延年の舞を舞っている人が描かれている」と記載されていたが、どれだかいまいち分からず。シアトル本には、下の方に白い頭巾を被り白い覆面か面のようなものをして踊っている僧侶か何かがいるので、それのことかなあと思ったりする。分かりやすいのは芸大本の方で、まず下の左角に琵琶法師。琵琶法師は背に琵琶を背負っていて、高足駄を履いて杖をついている。何かの本でこれが琵琶法師が道を行く際の基本コスチュームと書いてあったが、その通りなので、ちょっとうれしい。実はさらに弟子の童が手を引いている場合があるらしいのだが、これはよくわからなかった。
それから延喜楽を舞う人。中国風に見える獅子舞を舞う人。行道面を付けて行進する人々(仏様が来迎して歩いている図という可能性もなくはないが)。
行方不明のもう一幅にはいったいどんな絵があるのだろう。

北野天神縁起絵巻断簡 船出配流(一幅、鎌倉時代、弘安元年(1278年)、シアトル美術館)

菅原道真が九州太宰府に配流される船を描いた図。小さな船で屋形はあるが乗客のたかだか数人も収容できそうもない。船は心細く波間を進んでいく。
後から気がついたが、どうもこの絵巻は、東博にもある「弘安本」の一部らしい。東博の弘安本には仁俊潔白(にんしゅんけっぱく)と呼ばれる場面で、女官が上半身裸で錫杖を振って踊り狂っているというショッキングな絵がある。その絵の次には、貧しい民家の絵があり、その民家の屋根の上には鶏が、庭には洗濯物をする貧しい女性と子供がいる。そしてその隣には波打ち際が描かれていて、そこで終りとなっている。この次に来るのが、このシアトル本の「船出配流」なのかも。
東博の弘安本、仁俊潔白の場面
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=80883&imageNum=3

駿牛図(一幅、鎌倉時代、14世紀初期、シアトル美術館)

宗達にも牛の絵があったし、東博の新年度収蔵品の展示にもあったなあ、と思っていたら、どうも貴族の間で似絵が流行ったという十二世紀には、人間の似絵だけでなく牛や馬の似絵も同じように流行ったのだとか(宗達の牛はその伝統の継承。

列子御屏風(六曲一双、桃山時代、16世紀前半、シアトル美術館)

道教の道士、列子が空を飛ぶの図。道教関連の絵は室町、桃山時代狩野派のものが多い気がするが、なぜだろう?

竹に月図(六曲一双、室町時代、16世紀前半、シアトル美術館)

アメリカでの美術品の寄贈のあり方のひとつとして、生前は自宅で美術品を楽しみ、死後、美術館に寄贈するというパターンがあるそうである。この屏風図もそのようにしてシアトル美術館に収蔵された絵だとか。ゲストキュレーターの白原由起子さんによれば、この屏風は自立すら難しく絵の具や金箔の剥離や補修個所の劣化が激しかったらしいが、それを修復して展示にこぎつけたのだそうだ。展示にあいなったとき、寄贈者の親族があつまって、「ああ、この陥没したところは僕が頭突きをやったところだよ」とか、「これは猫がひっかいたところね」などという話がでてきたとか!

烏図(六曲一双、江戸時代、17世紀前半、シアトル美術館)

シアトル美術館を代表する絵。日本にあったら重文レベルなんじゃないだろうか。金地に墨で沢山の烏が描いてあり、烏合の衆とはこのことよ、という様相を呈している。烏はフライヤーではマティスが描きそうなシルエットにみえたのだけど、実はシルエットではなく、ちゃんと同じ墨の濃淡で目や羽が描かれているのだ。そして特筆すべきは烏がお茶目で可愛いこと。桃山時代から江戸時代初期の一時期、烏図が流行った時期があり、仁清等が陶磁器に絵付けしたりもしたのだそうだ。今は嫌われ者なのにね。

この屏風図は作者が不明らしい。なにげに人間ぽくてキュートな烏は狩野永徳の描く鳥を彷彿とさせるけど、時代が違う。デザイン性に優れているところやユーモラスなところはは何となく宗達っぽい気もするが、彼が墨を使ってたらし込みをやらないというのも珍しい気がするし。。。ちなみに宗達が伺候していた醍醐寺にもこの作品より時代が後の類例があるという。誰です、こんな素晴らしい絵を描いたのは?


鹿下絵和歌巻(本阿弥光悦筆、俵屋宗達画、桃山時代〜江戸時代、1610年代、シアトル美術館、個人蔵、サントリー美術館等)

光悦&宗達のペアの黄金時代の和歌巻。この二人の合作による和歌巻には、四季花弁下絵、鶴下絵、鹿下絵、蓮下絵があるが、光悦の署名から、蓮下絵が一番時代が下り、1617年以降、それ以外の3作品がその前の作品ということになるそうだ。

新古今和歌集は光悦が最も評価した和歌集(とっても分かる気がする)。鹿というモチーフは、宗達の最も早い時期の傑作として知られる平家納経の見返絵に描かれたモチーフ。さらに鹿は和歌の世界では、その秋の求愛の鳴き声によって秋の寂しさや恋愛を象徴する動物でもある。

この和歌巻の軸木に「光悦書之」と詞書があったことから和歌巻のアートディレクションは光悦が主導的立場をとったであろうことの傍証となっているそうである。実際にものを観てさもあらんという気がした。新古今和歌集の根底に流れる、静謐、深い諦観、孤独、もの悲しさ…。これらの深い理解に根差して新しいアートを再構築できるのは、このペアなら光悦に他ならないだろう。また、有名な三夕の歌(寂蓮、西行、定家の秋の夕暮れの歌)から始めるというのも心憎い。(とはいえ、西行から始まるので寂蓮の歌は無い。三夕の歌を途中から始めるのは不自然なので、もうひとつ冒頭の断簡があったりして。)

一方で、そういうもの悲しさを醸しながらも、そこに大胆なデザイン、モチーフの繰り返しによって生まれる健康的なリズム、そこはかとないユーモアをさりげなく持ち込んでしまうのは、宗達の真骨頂。これらの鹿はよくよく観ると若干ゆるキャラが入っていて、とても可愛いのである。この光悦&宗達のペアの仕事を観ると、日本に生まれて日本に育ち、この二人の仕事を少しだけでも理解できる幸運を思う。

※SAMの鹿下絵和歌巻の再現図
http://www.seattleartmuseum.org/exhibit/interactives/deerscroll/sam_deer.htm

酒井抱一像(伝酒井鶯蒲、一幅、江戸時代、文政十二年(1829年)、シアトル美術館)

酒井鶯蒲というのは抱一の弟子に当たる人だそうで、この絵は抱一の死後、五十年ほどで描かれているため、抱一の生前の姿をよく表している可能性が高いという。で、剃髪した僧侶の格好なのだ。そういえば、出家したために築地本願寺にお墓があるという話だったような。すると、吉原から請け出した小鶯は一体どうなったんだろう。

五美人図(葛飾北斎、一幅、江戸時代、文化年間頃(1804年〜18年、シアトル美術館)

北斎の肉筆美人画武家の女性はなにやら手紙をしたためている様子。商家の娘は花に水をやっている。小袖と共布の帯というのが珍しい。御殿女中は綿帽子姿でこれからどこかへお出かけか?さらに傾城に、読書する年増。北斎はどんな絵でも生き生きとして好き。

その他、中国の磁器やインドラ座像というネパールの仏像もすばらしかった。ああ、これはあと1回は行ってしまいそう。