横浜能楽堂 「英雄伝説 義経」 船弁慶

英雄伝説 義経」 第1回「悲劇の別れ 義経と静」
解説 三宅晶子
琵琶、語り 上原まり
能「船弁慶 前後之替 船中之語 名所教」(観世流

琵琶の弾き語りを聴くのも、お能の「船弁慶」を観るのは初めてだったので、とても楽しみにしていた。なかなか面白かった。


解説 三宅晶子

最初に三宅先生から、義経、弁慶、静御前のこと、それから義経記船弁慶のことなどについての解説。おもろかったのは、義経記のお話。義経伝説に根ざした能、文楽、歌舞伎の演目は、義経記にヒントがあるものが多そう。たとえば、この船弁慶義経記の第四のあたりの話がもとになっているらしい。ただし能と義経記の相違点は色々ある。例えば義経は船に乗る時、静とはまだ別れていないどころか十数名の女性が同乗しているとか、知盛の霊は出てこなかったりするとか。船弁慶のこれらの場面は、作者の観世小次郎信光の創作のようだ。

それから、義経記における義経のイメージと弁慶のイメージについて。義経記においては、義経が美化されているというのはよく指摘されることだけれども、義経が貴公子(貴種)で小さくて白、弁慶が大きくて黒というイメージがあるのだという。体の大きさは納得できるものの、色のイメージが能でも文楽でも歌舞伎でも継承されていないのは興味深い。舞台映えしないからだろうか。それとも、白や黒は死のイメージと結びつくから忌んだとか?むしろ弁慶など弁慶格子とか弁慶柄という能や歌舞伎から生まれた文様まである。今回の公演のパンフレットには白糸縅の鎧の草摺の写真があって、パンフレットを貰ったときはよく分からなかったのだが、見る人が見れば義経とピンとくる、ということなのでしょう。


義経記に関しては、家に帰って積ん読状態の岩波文庫の「義経記」を改めて眺めてみた。目次を見ると、義経の誕生、弁慶の誕生から義経の自害まで、文字通り、義経の一代記が書かれているらしい。義経記の成立は足利義満の時代以降、義政以前ということなので、世阿弥の頃にはまだ古典とは言えず、世阿弥は知っていたとしても食指が動かなかったのかも。しかしもっと後の時代のお能文楽、歌舞伎の作品には、義経記は多大な影響を与えているようだ。色々面白そう。少しだけ例を挙げると、巻五では、吉野で静と別れる時、初音の鼓の話が出てきたり、吉野での合戦で、横川覚範が死んじゃってたり(だから歌舞伎では大物俳優の役が殺されないように、わざわざ途中で戦いを止めることにするんだ、きっと)、吉野で忠信が義経に間違われたりしている。ほかにも、巻七では、「安宅」「勧進帳」の元となるエピソードと思われる部分がある。富樫介は意外にも簡単に言いくるめられるのだが、船で陸奥に落ちのびようとするとき、平権守というケチな船守が難癖をつけるので仕方なく弁慶が義経を打擲してその場を逃れる。信光はこの二つのエピソードから安宅のヒントを得たのだろう。肝心の勧進帳読み上げの部分はちょっと見つからなかったけど…。義経記、近いうちに読んでみよう。


琵琶、語り 上原まり

琵琶の弾き語りということで、室町時代か平安末期までタイムスリップするつもりでいたら、意外にも現代的な奏法で始まった。演奏は、私が言うのもおこがましいが、非常に高い演奏技術をお持ちだし、さすが宝塚出身の女優さんだけあって表現力が豊かだし、素晴らしいものでした。後で調べてみたら、上原さんの演奏する筑前琵琶というのは、明治に入ってから三味線の奏法を取り入れて成立した流派ということで納得。今回は義経記の巻四を語られたのだが、ちょうど文楽義太夫&三味線を一人で演奏したような感じだった。

琵琶自体は奈良時代頃には伝来していた楽器で、その哀しい心を揺さぶる音色を聴いていると、室町時代の人達が特に好んだのも分かる気がしてきた。


船弁慶 前後之替 船中之語 名所教 梅若万三郎

三宅先生によれば、小書の「前後之替」では、前場での毎が中之舞になり、「船中之語」では間狂言でワキが一ヶ谷の合戦のことを物語り、「名所教」では、アイが名所を教えるのだという。

その「前後之替」は、梅若万三郎師の静御前が、義経との別れの前に舞を所望され、烏帽子を被って中之舞を舞う場面。素敵だった。一度、途中で橋掛かりに行って泣くのだけど、気丈にもまた義経の前に戻って舞を続けるのは、この前観た「千手」と似ている。あの時も確か「郢曲」という小書がついて中之舞になったのだった。もっとも「千手」はその後、千手と重衡とがお互いに扇を掲げあう型などあって「船弁慶」とは異なる展開となるのだけど。「船弁慶」の方は、舞い終えた静は、力を落として座り込み、力無く烏帽子を落とすようにして取ると、橋掛かりを去って行くのだった。


ちなみに静御前(若女)の装束は唐織着流なのだけど、唐織は紅入ではなくクリーム色っぽくみえる色の地に、中に草花の絵の入った窓絵の文様と桐の花のような文様の入ったものだった。紅色の装束が一般的なのだと思うけど、こちらもなかなか素敵。


それから、間狂言となるのだが、山本東次郎師の船頭(歌舞伎では確か舟長というと思うのだが)で、舟の作り物を持ってくる時の素早い動きがキュート。歌舞伎では舟の大道具は無いけど、お能の方にはあるというのも面白い。梶を使って漕ぐ所作も、歌舞伎みたいに形だけっていうのではなくて、狂言の演り方は本格的で、実は川下りの船頭のバイトでもやっていたのでは?と思うほどなのでした。

ものの本によれば、この間狂言の時にアイが弁慶に西国の舟を自分に任せてくれと頼み、弁慶が了解するというような問答があるらしいのだが、今回は無かった気がする。それからアイが弁慶(森常好師)に、噂には聞いているけれども弁慶の口から一谷の合戦の様子を語ってほしいという。弁慶は船を漕ぐのを止めて聞くといい、といって語り出す(「船中之語」)。海が穏やかであるということをそれとなく知らせるために、そんなことを言うのかな?語り終わると、今度は弁慶が名所を教えてほしいと船頭の所望し、船頭が名所を語り出す(「名所教」)。山本東次郎師の名演で見所では何人かの人が東次郎師の見つめる方向を思わず振り返って観ていました。

そうやってアイが名所を教えているとふと見えた武庫山に雲が見え、あれよあれよという間に嵐となる。すると、海上に平家の一門の亡くなった人々が浮かび出てきたのだ。おーこわ。知盛だけじゃなかったんだ。

そして、後シテの平知盛は筋男(出目洞白作)の面に鍬形黒頭で、白の袷法被(だったかな?)に白地に金の立波の半切という出立。筋男の面は、もちろん恐ろしいのだけど、そこはかとなく気品もあって、平家の貴公子にぴったり。義経に襲いかかろうとするが弁慶の祈祷によって無事、知盛の霊は退散していくのだった。

最後の「引く汐にゆられ流れ、また引く汐にゆられながれて、跡白波とぞなりにける」の部分は、歌舞伎の「義経千本桜」の「大物の浦の段」に比べて随分とあっさりしていた。歌舞伎ではこの部分が感動的で最後の最後にうるっと来てしまう。お能と歌舞伎の違いで面白い。お能の方の知盛は、「鵺」の最後のように波に流されて消えていってしまうのだった。


ところで些細な話なのだけれども、ワキの僧が「大物の浦」と言うとき、何度聞いても「だいもんのうら」と聞こえるのが、興味深かった。もっというと、「だいもん」の「ん」は普通の「ん」とは違って鼻からあまり音が抜けない音なのだ。何故、こんな風になっているのだろう?

<番組>
 シテ(静?知盛ノ怨霊)梅若万三郎、子方(判官源義経)梅若志長、
 ワキ(武蔵坊弁慶)森常好
 ワキツレ(判官ノ従者)森常太郎、梅村昌功、大日方寛、アイ(船頭)山本東次郎
 笛:一噌隆之、小鼓:幸正昭、大鼓:大倉正之助、太鼓:金春國和
 後見:梅若万佐晴、中村裕、梅若紀長
 地謡:伊藤嘉章、青木一郎、加藤眞悟、遠田修、八田達弥、
 地謡:長谷川晴彦、梅若泰志、梅若久紀