東京国立博物館 平常展

表慶館がAsian Galleryになって初めて入ってみた。やっぱり全く同じものでも綺麗な場所で見ると気分も違う。東洋館は雰囲気が暗すぎた。耐震工事ついでにリノベーションで明るく綺麗にしてくれることを期待しています。

表慶館

第1室 中国考古

甲骨(中国河南省安陽市殷墟、商時代、前13〜前11世紀)

何といっても面白いのは、甲骨文字が書かれた骨。数十個展示されていて、ちゃんと解読された内容が付記されている。書かれていることは結構単純なので、いくつか見ていると、甲骨文字が分かるようになるというオマケ付き。たとえば、「占う」という字は「卜」であることが分かる。すごいなあ。
そして、これらを見ているうちに、中国語が縦書なのは、ひょっとして縦長の骨に書くために縦書だったのだろうか、と思ったのだが、どうなんだろう?

紅釉瓶(景徳鎮窯、清時代、乾隆年間(1736〜95年))

サントリー美術館でやっていたシアトル美術館所蔵品展で観たのと同類の紅い釉薬のかかった瓶。シアトルのも発色、形とも素晴らしかったが、ちらもなかなか。


第7室 西アジア、エジプトの考古と美術

楔形文字粘土板文書(イラク出土、ウル第三王朝時代、前21世紀)

これだったかな?楔形文字で書かれた公式文書のようなものを解読したプレートがあった。4000年以上も昔の文章なのに、記載された美辞麗句が表現的に今の日本人が読んでも違和感が無いことに驚く。"超訳"されているのかと思ったが、英訳と和訳が併記されていたので、そういう訳でもないようだ。私は、普段、古典を読んで、今も昔も人間の考えることは変わらないと感心しきりだけども、意外にもっともっと相当前から人間というものは変わっていないようだ。


第8室 朝鮮考古

耳飾(三国時代(新羅加耶etc)、5〜6世紀)

表慶館で見るとますます綺麗。また、東洋館で見たときは、展示ケースに平置きされていたので気がつかなかったが、現在のようにぶら下げる形で展示されているのを見ると、結構重そう。ピアスなので、あれだけ重いものをつけていると、耳たぶが伸びて大きくなっちゃったりして。

冠(重美、伝韓国慶尚南道出土、三国時代(加耶)、5世紀)

冠についた揺れる飾りは歩揺(ほよう)といい、王のみ付けることを許されるとか。お能で出てくる天冠などもシャラシャラとした飾りがあるが、こちらも神などしか付けない。


第9室 朝鮮工芸

鉄砂草文壺(朝鮮時代、17世紀)

錆絵は、コバルト(陶磁器用顔料で藍色に発色する。日本ではコバルトを使った磁器は染付けと呼ばれる)の枯渇により盛んになったという。知らなかった。


本館

国宝室

地獄草紙(国宝、平安〜鎌倉時代、12〜13世紀)

地獄に行ったらどうなるかという話が細々と図解されている。趣味が悪いように思ってしまうが、それは私が現代人だからだろう。1000年前から仏教がずっと繰り返し繰り返し民に地獄の概念を啓蒙してきたお陰で、私たちは、地獄と聞いて即座に地獄に関する一定の知識を呼び出すことができるのだ。この草紙を作成した当時に観た人々の中には、この絵を観て恐怖におののいて改心しようと誓った人が多数いたに違いない。一瞥しただけで「趣味悪」と思ってしまった現代の私の方がよっぽど縁無き衆生だ。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B07&processId=02&colid=A10942


第2室 仏教の美術 ―平安〜室町

文覚上人像(重文、鎌倉時代、13世紀)

文覚上人といえば、色々エピソードがあるけどこの絵を見てすぐに思い出すのは西行のこと。文覚は西行に会う前は西行のことを「数寄をたてて、ここかしこにうそぶきありく条、にくき法師也」と言ってたくせに、実際に本人に会ったら丁重にもてなし、いぶかしく思った弟子に対して「あらいふかいなやの法師どもや。あれは文覚にうたれんずるもののつらやうか。文覚をこそうたんずる者なれ」などと言い放ったというエピソードがある(井蛙抄)。で、文覚の「つらやう」は如何に、ということになるが、文覚だけ観ると、結構、強面にみえる。けれども、西行肖像画を思い出してみると、確かに西行の方が「文覚をうたんずる者」と思える「つらやう」だった。文覚の負け!

線刻蔵王権現像(国宝、奈良県吉野郡吉野町金峯山出土 平安時代、長保3年(1001))

たまたま白洲正子関連の本を眺めていたら、見覚えのある蔵王権現像の写真を見つけた。解説を読むと記年銘品としては最古のものと記載されている。最古にしてこれだけの迫力ある細密な線画。いつも第2室にましますので、見慣れた光景になっていたけれども、実は実力派だったのだ。

書状案断簡(文覚筆、鎌倉時代、12〜13世紀)

「院が許したというのに君が許さないとなれば私は一体どうすれば…」といったようなことが書いてある書状の草稿。院というのは後白河院?だとすれば、頼朝宛だろうか?自己弁護というところが、何となく文覚ちっく。


第2室 宮廷の美術 ―平安〜室町

書状(藤原家隆筆、鎌倉時代、13世紀)
書状(藤原定家筆、鎌倉時代、13世紀、個人蔵)

家隆や定家のような宮廷歌人は歌を第一の職務にしていたのかと思いきや、ちゃんと官僚として働いていたのだった。家隆の書状は阿武隈川の氾濫とそのためのお布施の決裁に関する書状、それから定家の方は、八条院に同行して視察か何かに行ったときの報告書だろうか?そういう業務をこなしながら歌にも精進していたのだ。定家が自身の「明月記」に色々仕事の愚痴を書いているというのも少し分かる気がしてきた。

第8室 書画の展開 ―安土桃山〜江戸

詠草(細川幽斎筆、安土桃山時代天正18年(1590)

前回来た時には無かった解説プレートが付いていた。ありがたや。
「七月十五日(中略、自分のメモが汚くて読めず)あしから山をこえて竹の下といふ里にとまり侍りけるに
あしからの風吹こゆる
あき風のやとりしらるる
竹のしたみち」
天正18年(1590年)というと、細川幽斎が秀吉の小田原攻めに参加した時のようなので、この足柄山を越えて云々というのは小田原城を滅ぼした後の復路ということだろうか。

詠草(むさしのゝ月)(烏丸光広筆、江戸時代、17世紀)

「さぞなみむ山のはしらぬ武蔵野に 秋は最中の有明の月」
「さぞな見む」ということなので、実際に武蔵野の月を見たわけではなく、「さぞかし素晴らしく見えるだろう」ということだろうか。武蔵野といえば「武蔵野は月の入るべき山もなし 草より出でて草にこそ入れ」というイメージだったらしい。だから、「山の端が無く隠すもののない武蔵野に出づる秋の最中(八月十五夜)の有明の月は、さぞかし素晴らしいことだろう」ということなのだろう。


まだまだ書き留めたいことは山ほどあるけど、まず本日はこれぎり。